小沢幹事長を取り巻く形でニュースの渦が回っている。
昨今は政治資金規正法の話からボルテージアップして、ゼネコン裏金による土地購入疑惑の話に拡大されて喧伝されている。
この社会現象を見ながら、つくづく国民は騙されているなと強く感じる。
孔子先生の論語に「先生がいわれた、古いことに習熟してさらに新しいこともわきまえてゆくなら、人の師となれる」という一文がある。温故知新として有名である。
国民もマスコミも孔子先生のこのお言葉を今一度かみ締めてみる必要があるのではないだろうか。
まず現在マスコミ各社がこぞって報道している内容は、何処の報道機関を取り出してもまったく同じだ。これはニュースソースが一つということを意味する。ということはニュースソースの信憑性を検証する手段もなく、また検証しようともせず、思考停止状態で、正しいと脊髄反射して、垂れ流しているということになる。そのニュースソースこそ検察であろう。
そして、知的怠惰に陥った報道機関ほど罪が深く、そして質が悪いものはない。何故ならマスコミニュケーションという公器の持つ暴力的側面を振り回しているからだ。
ここにいい例えがある。帯刀するものに侍の心得として、武士道というものがある。これは刀の持つ暴力的な面を御する人間の心を磨くものである。しかしどうだろう、視聴率という資本主義の物差しだけで編集が決まっていく昨今の報道機関に、公器を御する心構えというものがあるのだろうか。
リーマンショックで明るみにされた、一部の金満家が公的存在の金融機関を私利私欲のために使い、巨万の富を手にして逃げた社会現象に、怒りを集中させたように、公器でありながら偏向した資本主義のもとに操作される報道機関に対して、同じような怒りを何故ぶつけないのだろうか。
私は小沢一郎は嫌いだ。しかし、一連の報道から、検察の作為が浮かび上がってくる。これは恐ろしいことだ。検察がリークして世論操作している内容を見るに付け、司法という善人の仮面を被り、裏で悪をやる姿が浮かび上がってくる。慈善家を装うマフィアのように。
何故そのように感じるかというと、1/15の段階では、土地購入資金の4億円そのものが、土地代金支払い時期と銀行から融資を受けた時点の時間差の不合理性を根拠に、全てが不正であるかのような報道を仕向けた。
しかし、小沢一郎が、金の出所の金融機関情報を全て検察に出したと言明したらやおら、3億円強の金が小沢の個人資金から出ている事を認める情報を流している。
明らかに報道内容の信憑性が疑われる事実が露見し始めている。
このように考えてくると、検察の作為は何か?という大きな疑問が湧く。そして、推理作家風に言うなら、まさに官僚の逆襲が検察の衣纏って顔を出してきたということだろう。法という誰もが信じ込んでしまうトリックを巧みに使い、そして、黒い衣服を纏ったあたかも正義の執行人のように肩で風を切って家宅捜査する映像を一方的に流して、通常国会を紛糾させて政権運営を頓挫させて、再び官僚の春を取り戻そうと企んでいるのだろう。
国民は「竜馬」に続け。
2010年1月18日月曜日
2009年10月24日土曜日
日本郵政次期社長に期待する
日本郵政次期社長に斎藤氏が内定した。元大蔵事務次官経験者を日本郵政会社のトップに招聘する人事を巡り、報道機関や野党からは官僚の天下りでは無いかとか、旧郵便局業態へ先祖帰りにならないかという指摘や人事への非難がある。確かに官僚が民間企業や法人などに職を得るという字面をもって「天下り」と定義すれば、その通りであろう。しかし「天下り」の問題を考える際、何故「天下り」の規制が必要なのかという議論の本質を我々は忘れてはならない。報道機関も野党もこの重要なポイントを見失った論を展開しているから、深みの無い議論に終わっている。いやもしかしたら自民党は今もって、何故「天下り」が問題なのか分かっていないのではないか。
そもそも天下りの問題は何処にあるのか。一言で言えば、官僚が天下りと渡りを繰り返すことにより「国民の税金」から多額の給与と退職金を累積して「不透明」に懐にできる構造にある。天下り先のOB在籍の独立行政法人と公益法人には、特別会計および一般会計から巨額の国の補助金が予算化されている。つまり「理」と「義」に反した税金の流れと「天下り」が結びついた時に始めて問題となるのだ。
ところでこの税金の不透明な流れは、50年以上に亘る自民党一党独占の政治体制のもとで育まれてきた構造である。そこには自民党の族議員と官僚と業界とで構成する癒着したトライアングルがある。癒着構造のもと「国民の税金」が自民党の政治資金に、あるいは官僚の「天下りと渡り」で累積する退職金に、そして自民党税調下での業界への租税軽減措置に化けて消えていく。この闇の成金マシンに組み込まれた天下りこそが問題なのだ。
裏を返せば闇の成金マシンシステムが無ければ、官僚が法人団体や民間企業に転出しても「天下り」が「悪」という構図にはならないはずだ。民主党の目指す「政治・行政改革」の一つは、闇の成金マシンシステムを解体することで、加えて税金が「不透明」に蒸発していないかを監視をすることだ。民主党政権下では、「天下り」の議論の土俵が自民党時代のそれとは質的に異なってくるのだ。官僚が企業のトップに就いても自民党時代に成り立った「天下り」イコール「悪」は成り立たない。この違いも分からずに、報道機関や野党は、「天下り」イコール「悪」という短絡的な議論をしている。今朝の“ウェークアップぷらす”TVでも、読売新聞 橋本氏、自民党 石破氏、それから竹中平蔵の各氏が民主党の野党時代の対「天下り」方針と今回の日本郵政会社での人事の違いを、日銀総裁同意の一件を引き合いに出して、違いを説明しろと言っていたが、既にしてまったく土俵が異なっているという認識がない。報道機関が薄っぺらの議論を演出するから、日本の政治が非常に薄っぺらなものに落とし込まれている。いい加減、このような低レベルの議論、報道に終止符を打たなくてはならない。
むしろ視点は、次期社長に内定の斎藤氏の実力とコスト・パフォーマンスを見ていくべきだ。そもそも当時の郵政民営化の本質は竹中平蔵がアメリカの金融業界の要求に応じる形で当時340兆円あった郵貯マネーを米国に開放したことであった。マネー資本主義とも称される新自由主義の風を強くしたわけだ。今回の郵政民営化見直しの目的の一つは、まず郵貯マネーの使い方の見直しにある。この原点を忘れてはならない。また、郵便局のネットワークは既に地方・都市に広く展開されている。これを有効に活用して、郵貯マネーの使い方と合わせて地域再生の布石にしていくべきだと思う。日本郵政会社に課せられる新しい使命は広く深い多機能的なものになるであろう。我々はむしろ今後の日本郵政会社の新基軸と展開を注視すべきだ。
米国では名だたるCEOが企業再生請負人のように次から次へと渡る。そこには負のイメージはない。例えば、ルイス・ガートナー ルイス・ガースナー IBM元会長は、RJRナビスコ最高経営責任者(CEO)から崩壊の淵にあったIBMを再建するため、1993年会長兼最高経営責任者(CEO)となった。名門企業IBMで大規模なリストラを断行し、終身雇用制など企業文化そのものも根本的に変革し世界のIBMを変えた。
IBMという大企業を見事に操ったガースナー氏は、著書『巨象も踊る』の中で、こう語っている。
「大きいことはいいことだ。象が蟻より強いかどうかは、問題ではない。その象がうまく踊れるかどうかの問題である。見事なステップを踏んで踊れるのであれば、蟻はダンス・フロアから逃げ出すしかない。 本業に専念しろ。ダンスはその日のデートの相手と踊れ。」
(ここでいう蟻とはコンピュータ業界でのダウンサイジングという当時起きていたパラダイムシフトを指している。)
日本郵政会社においても国民は今回の人事を、巨大な日本郵政会社が民間企業として見事なステップを踏み、地域活性化と絡んで日本再生の礎になれるか、我々の問題として身近に考えるべきだ。
報道機関や政治家の議論が薄っぺらなのが気になる。何が問題か、問題が問題として頭をもたげる境界条件は何だ、という複眼的な視点で議論を醸し出す必要がある。自民党時代が長かったから仕方が無い面もあるが、問題の問題たる所以を掘り起こす態度が必要だ。「これまでそうだったから」という思い込みや思考停止状態から抜け出よう。幸いにも政治のプロセスの見える化(見えるようにすることの略語)、情報公開を掲げる民主党の大きな変革で、深みある議論が出来る土壌が生まれつつある。
そもそも天下りの問題は何処にあるのか。一言で言えば、官僚が天下りと渡りを繰り返すことにより「国民の税金」から多額の給与と退職金を累積して「不透明」に懐にできる構造にある。天下り先のOB在籍の独立行政法人と公益法人には、特別会計および一般会計から巨額の国の補助金が予算化されている。つまり「理」と「義」に反した税金の流れと「天下り」が結びついた時に始めて問題となるのだ。
ところでこの税金の不透明な流れは、50年以上に亘る自民党一党独占の政治体制のもとで育まれてきた構造である。そこには自民党の族議員と官僚と業界とで構成する癒着したトライアングルがある。癒着構造のもと「国民の税金」が自民党の政治資金に、あるいは官僚の「天下りと渡り」で累積する退職金に、そして自民党税調下での業界への租税軽減措置に化けて消えていく。この闇の成金マシンに組み込まれた天下りこそが問題なのだ。
裏を返せば闇の成金マシンシステムが無ければ、官僚が法人団体や民間企業に転出しても「天下り」が「悪」という構図にはならないはずだ。民主党の目指す「政治・行政改革」の一つは、闇の成金マシンシステムを解体することで、加えて税金が「不透明」に蒸発していないかを監視をすることだ。民主党政権下では、「天下り」の議論の土俵が自民党時代のそれとは質的に異なってくるのだ。官僚が企業のトップに就いても自民党時代に成り立った「天下り」イコール「悪」は成り立たない。この違いも分からずに、報道機関や野党は、「天下り」イコール「悪」という短絡的な議論をしている。今朝の“ウェークアップぷらす”TVでも、読売新聞 橋本氏、自民党 石破氏、それから竹中平蔵の各氏が民主党の野党時代の対「天下り」方針と今回の日本郵政会社での人事の違いを、日銀総裁同意の一件を引き合いに出して、違いを説明しろと言っていたが、既にしてまったく土俵が異なっているという認識がない。報道機関が薄っぺらの議論を演出するから、日本の政治が非常に薄っぺらなものに落とし込まれている。いい加減、このような低レベルの議論、報道に終止符を打たなくてはならない。
むしろ視点は、次期社長に内定の斎藤氏の実力とコスト・パフォーマンスを見ていくべきだ。そもそも当時の郵政民営化の本質は竹中平蔵がアメリカの金融業界の要求に応じる形で当時340兆円あった郵貯マネーを米国に開放したことであった。マネー資本主義とも称される新自由主義の風を強くしたわけだ。今回の郵政民営化見直しの目的の一つは、まず郵貯マネーの使い方の見直しにある。この原点を忘れてはならない。また、郵便局のネットワークは既に地方・都市に広く展開されている。これを有効に活用して、郵貯マネーの使い方と合わせて地域再生の布石にしていくべきだと思う。日本郵政会社に課せられる新しい使命は広く深い多機能的なものになるであろう。我々はむしろ今後の日本郵政会社の新基軸と展開を注視すべきだ。
米国では名だたるCEOが企業再生請負人のように次から次へと渡る。そこには負のイメージはない。例えば、ルイス・ガートナー ルイス・ガースナー IBM元会長は、RJRナビスコ最高経営責任者(CEO)から崩壊の淵にあったIBMを再建するため、1993年会長兼最高経営責任者(CEO)となった。名門企業IBMで大規模なリストラを断行し、終身雇用制など企業文化そのものも根本的に変革し世界のIBMを変えた。
IBMという大企業を見事に操ったガースナー氏は、著書『巨象も踊る』の中で、こう語っている。
「大きいことはいいことだ。象が蟻より強いかどうかは、問題ではない。その象がうまく踊れるかどうかの問題である。見事なステップを踏んで踊れるのであれば、蟻はダンス・フロアから逃げ出すしかない。 本業に専念しろ。ダンスはその日のデートの相手と踊れ。」
(ここでいう蟻とはコンピュータ業界でのダウンサイジングという当時起きていたパラダイムシフトを指している。)
日本郵政会社においても国民は今回の人事を、巨大な日本郵政会社が民間企業として見事なステップを踏み、地域活性化と絡んで日本再生の礎になれるか、我々の問題として身近に考えるべきだ。
報道機関や政治家の議論が薄っぺらなのが気になる。何が問題か、問題が問題として頭をもたげる境界条件は何だ、という複眼的な視点で議論を醸し出す必要がある。自民党時代が長かったから仕方が無い面もあるが、問題の問題たる所以を掘り起こす態度が必要だ。「これまでそうだったから」という思い込みや思考停止状態から抜け出よう。幸いにも政治のプロセスの見える化(見えるようにすることの略語)、情報公開を掲げる民主党の大きな変革で、深みある議論が出来る土壌が生まれつつある。
2009年10月20日火曜日
温室ガス25%削減ー日本再生のプロジェクトー
鳩山首相が先に世界に向けて発信した2020年までの温室効果ガス排出削減目標25%(1990年比)を巡りさまざまな議論が起こっている。このことは非常に喜ばしいことである。開かれた議論こそが活性化した民主主義を育てるからだ。
その観点で自民党時代を振り返ると、どうだっただろうか。残念ながら自民党時代には首相であった安倍、福田、麻生の各氏がサミットに出席しても、前向きなチャレンジングな志向を世界に向けて発信することは無かった。どうでもいいとはいわないまでも、代わり映えのしないメッセージしか出せなかった。
それは何故か。自民党時代には頭を使う政治がなされてこなかったからだ。世界では、各国が経済的にも、軍事的にも、政治的にも凌ぎを削りあっているのに、一方日本では、ひたすらに島国根性で、内向きの村の地割と村の利害関係の調整に勢力を注いできた。この自民党政権時代の「ぬるま湯」に浸かり、何も考えずにこれまでの慣習を続けてきた怠惰があらゆる領域で日本を停滞させてきた。国家行政においても地方行政においても緊張感なきことこの上なかった。
今回の宣言は、日本がやっと永い眠りから覚めたことを世界に向けて、そして国内に向けて示したものだ。これが日本再生の一歩に繋がることを期待したい。
ただ、日本の現状を打破しようとする提案に対して、ネガティブな言論も目に付く。例えば先日の読売新聞の「地球を読む」コラムでのJR東海会長葛西氏の寄稿などが良い一例だ。
他のネガティブな言論も大体同じ基調を取っていると思う。大きく見ると次の3点だろう。
(1) 25%と言う数字が具体的な裏づけを積み上げた数字になっていない。また余裕を見た目標設定になっていない。事前国内合意が取れていない数字である。
(勿論、反論する方も具体的な数字を積み上げて反論しているのではない、と言う論理的欠陥をさらけ出しているのであるが)
(2) 国民への経済的負担及び企業への財政的負担が大きく、景気の減速に繋がる。また排出規制基準のより低い国への企業移転や製造拠点シフトが懸念される。結果として国内雇用の縮小、国民生活の逼迫を危惧する。
(3) 1990年基準の妥当性が無い。また日本の削減目標数字が突出している。
これらの指摘を注意深く見ると共通の特徴があることに気が付く。それは、やりたくないために、机上で出来ない理由を上げ連ねると言うものだ。
どのようなプロジェクトでも高い理想とか強い願望が最初にあり、それが方向付け・目標設定を行う。もし目標がトレンドに乗っている、つまり従来の積み上げで達成できるのであれば、ブレークスルーは無くてすむ。でも得られる結果は陳腐なものになりがちである。
一方、目標が従来技術の延長上に位置しないものだとパラダイムシフトが必要になる。25%削減目標はまさにパラダイムシフト、コペルニクス的転回が必要なターゲットなのだ。当然得られる結果はエポックメーキングなものになる。
過去において難しい目標を立て、それでいて成功したプロジェクトはいくつもある。皆様々な試行・実験を通して、不屈の精神と決断力でひたすら突き進んで成功している。第30代アメリカ大統領クーリッジも「この世に不屈の精神に代わるものは何一つ無い」と言っている。
例えば今から50年近く前にケネディ大統領は人類を月に送り届け無事に地球に帰還させる計画を発表した。アポロ計画である。今と比べて、コンピュータ技術も通信技術も比較にならないほどのレベルであったはずだ。しかし計画開始から10年をまたずに計画を成し遂げた。日本では東京オリンピックから5年後の時代だった。勿論アポロ計画は、発表時点での技術のトレンドで見通せた計画ではなかったはずだし、国内合意形成をしてから発表した計画でもなかったはずだ。
更に、はるか昔の紀元前2570年ごろのクフ王のピラミッドも見てみよう。当時の技術と知恵を集めて20年ほどで完成させたと言われている。現在、最新の技術・工法をもってしても5年掛かるとの見積もりがあるのに、しかし先人達は20年で達成したのである。
つまりやる気になって不屈の精神で進んでいけば、革新的な壮大な計画でも達成できるのである。
昨今の日本の状況はと言えば、先のJR東海の会長の話にも出ているように、やれない理由をあげてやらない人間がはびこっている。これは会社でいえばまさに大企業病で、会社組織の大敵である。こんなことはJR東海の会長もご存知のはずだと思うのだが、出来ない理由作りに自らいそしむとは日本の経営者も落ちぶれたものだ。
温室効果ガス25%削減には、エネルギー浪費の削減、エネルギー効率の向上、化石エネルギーに代わる代替エネルギーの開発など、様々な技術及び政策を有機的に結び付ける施策が必要だ。この施策は地域の街づくりと関連するし、町と町を繋ぐ輸送ネットワーク網・情報ネットワーク網とも関連するし、電力パワーネットワーク網も関連する。勿論もの作り産業の構造改革にも繋がるものだ。つまり21世紀の日本の骨格を設計し直す壮大な再生基本設計になるものだと思う。
言い換えれば、温室効果ガス25%削減のプロジェクトは、国内で抱えている様々な問題、例えば硬直化した社会構造の問題、過密・過疎の問題、少子高齢化の問題、高度成長期の成長モデルに変わる成長モデルなどをトータルに取り込んだ解決策にすべきだと思う。
勿論、歴史を見れば、石炭エネルギー革命と蒸気機関の発明を成しえたイギリスがまず蒸気軍艦により世界制覇を成し遂げた。そして第二次世界大戦の頃からは石炭エネルギーに代わる石油エネルギーを用いたエンジンが主流になり、特に戦後にはジェットエンジンの開発を爆発的に推進した米国が航空機技術により世界を制覇することになった。
日本がこれから進めようとしているエネルギー革命は次世代の国際社会の覇者を決めるものになる。米国も中国も強かに開発を加速しているのが実態である。確かに石油の資源枯渇までにはあと数十年はかかると言われている。また長い年月をかけて現在までに構成されてきたエネルギー構成であるが故に、急激にしかも短期的には変われないだろう。しかし確実に石油エネルギーからのシフトは進んでいる。
政策面でもアメリカで排ガス制限の新法案が最近下院を通過した。ガス排出制限の方策を立てない国には貿易(関税)障壁を設けるというものだ。企業が排出基準のより低い国に移転するという動きに歯止めをかける措置である。よくネガティブキャンペーンに使われる、高い排ガス規制基準が国内産業の競争力を削ぐとか、国内産業が空洞化するという短絡的な議論は成り立たなくなるということだ。
また、25%という数字にしても、EUの1990年比での2020年までの削減目標は20%であり、既にEUは2005年までに4%を削減している。方や日本は2005年で7%増大している。これまでの自公政権が、温室効果ガスの削減に対して不屈の精神を持たず、戦略もなく、対応してきたためである。
温室効果ガス25%削減の道は日本の構造改革の道であり、日本再生への茨の道でもある。今回の宣言が、その戦いの宣戦布告だという気概をもって、政府は早く、25%達成に対する負の力を示しつつ、それを乗り越えて目指す21世紀の日本の骨格を提示し、国民と共に知恵と汗をかき、実験を積み重ねながら潔く進んでいって欲しい。
その観点で自民党時代を振り返ると、どうだっただろうか。残念ながら自民党時代には首相であった安倍、福田、麻生の各氏がサミットに出席しても、前向きなチャレンジングな志向を世界に向けて発信することは無かった。どうでもいいとはいわないまでも、代わり映えのしないメッセージしか出せなかった。
それは何故か。自民党時代には頭を使う政治がなされてこなかったからだ。世界では、各国が経済的にも、軍事的にも、政治的にも凌ぎを削りあっているのに、一方日本では、ひたすらに島国根性で、内向きの村の地割と村の利害関係の調整に勢力を注いできた。この自民党政権時代の「ぬるま湯」に浸かり、何も考えずにこれまでの慣習を続けてきた怠惰があらゆる領域で日本を停滞させてきた。国家行政においても地方行政においても緊張感なきことこの上なかった。
今回の宣言は、日本がやっと永い眠りから覚めたことを世界に向けて、そして国内に向けて示したものだ。これが日本再生の一歩に繋がることを期待したい。
ただ、日本の現状を打破しようとする提案に対して、ネガティブな言論も目に付く。例えば先日の読売新聞の「地球を読む」コラムでのJR東海会長葛西氏の寄稿などが良い一例だ。
他のネガティブな言論も大体同じ基調を取っていると思う。大きく見ると次の3点だろう。
(1) 25%と言う数字が具体的な裏づけを積み上げた数字になっていない。また余裕を見た目標設定になっていない。事前国内合意が取れていない数字である。
(勿論、反論する方も具体的な数字を積み上げて反論しているのではない、と言う論理的欠陥をさらけ出しているのであるが)
(2) 国民への経済的負担及び企業への財政的負担が大きく、景気の減速に繋がる。また排出規制基準のより低い国への企業移転や製造拠点シフトが懸念される。結果として国内雇用の縮小、国民生活の逼迫を危惧する。
(3) 1990年基準の妥当性が無い。また日本の削減目標数字が突出している。
これらの指摘を注意深く見ると共通の特徴があることに気が付く。それは、やりたくないために、机上で出来ない理由を上げ連ねると言うものだ。
どのようなプロジェクトでも高い理想とか強い願望が最初にあり、それが方向付け・目標設定を行う。もし目標がトレンドに乗っている、つまり従来の積み上げで達成できるのであれば、ブレークスルーは無くてすむ。でも得られる結果は陳腐なものになりがちである。
一方、目標が従来技術の延長上に位置しないものだとパラダイムシフトが必要になる。25%削減目標はまさにパラダイムシフト、コペルニクス的転回が必要なターゲットなのだ。当然得られる結果はエポックメーキングなものになる。
過去において難しい目標を立て、それでいて成功したプロジェクトはいくつもある。皆様々な試行・実験を通して、不屈の精神と決断力でひたすら突き進んで成功している。第30代アメリカ大統領クーリッジも「この世に不屈の精神に代わるものは何一つ無い」と言っている。
例えば今から50年近く前にケネディ大統領は人類を月に送り届け無事に地球に帰還させる計画を発表した。アポロ計画である。今と比べて、コンピュータ技術も通信技術も比較にならないほどのレベルであったはずだ。しかし計画開始から10年をまたずに計画を成し遂げた。日本では東京オリンピックから5年後の時代だった。勿論アポロ計画は、発表時点での技術のトレンドで見通せた計画ではなかったはずだし、国内合意形成をしてから発表した計画でもなかったはずだ。
更に、はるか昔の紀元前2570年ごろのクフ王のピラミッドも見てみよう。当時の技術と知恵を集めて20年ほどで完成させたと言われている。現在、最新の技術・工法をもってしても5年掛かるとの見積もりがあるのに、しかし先人達は20年で達成したのである。
つまりやる気になって不屈の精神で進んでいけば、革新的な壮大な計画でも達成できるのである。
昨今の日本の状況はと言えば、先のJR東海の会長の話にも出ているように、やれない理由をあげてやらない人間がはびこっている。これは会社でいえばまさに大企業病で、会社組織の大敵である。こんなことはJR東海の会長もご存知のはずだと思うのだが、出来ない理由作りに自らいそしむとは日本の経営者も落ちぶれたものだ。
温室効果ガス25%削減には、エネルギー浪費の削減、エネルギー効率の向上、化石エネルギーに代わる代替エネルギーの開発など、様々な技術及び政策を有機的に結び付ける施策が必要だ。この施策は地域の街づくりと関連するし、町と町を繋ぐ輸送ネットワーク網・情報ネットワーク網とも関連するし、電力パワーネットワーク網も関連する。勿論もの作り産業の構造改革にも繋がるものだ。つまり21世紀の日本の骨格を設計し直す壮大な再生基本設計になるものだと思う。
言い換えれば、温室効果ガス25%削減のプロジェクトは、国内で抱えている様々な問題、例えば硬直化した社会構造の問題、過密・過疎の問題、少子高齢化の問題、高度成長期の成長モデルに変わる成長モデルなどをトータルに取り込んだ解決策にすべきだと思う。
勿論、歴史を見れば、石炭エネルギー革命と蒸気機関の発明を成しえたイギリスがまず蒸気軍艦により世界制覇を成し遂げた。そして第二次世界大戦の頃からは石炭エネルギーに代わる石油エネルギーを用いたエンジンが主流になり、特に戦後にはジェットエンジンの開発を爆発的に推進した米国が航空機技術により世界を制覇することになった。
日本がこれから進めようとしているエネルギー革命は次世代の国際社会の覇者を決めるものになる。米国も中国も強かに開発を加速しているのが実態である。確かに石油の資源枯渇までにはあと数十年はかかると言われている。また長い年月をかけて現在までに構成されてきたエネルギー構成であるが故に、急激にしかも短期的には変われないだろう。しかし確実に石油エネルギーからのシフトは進んでいる。
政策面でもアメリカで排ガス制限の新法案が最近下院を通過した。ガス排出制限の方策を立てない国には貿易(関税)障壁を設けるというものだ。企業が排出基準のより低い国に移転するという動きに歯止めをかける措置である。よくネガティブキャンペーンに使われる、高い排ガス規制基準が国内産業の競争力を削ぐとか、国内産業が空洞化するという短絡的な議論は成り立たなくなるということだ。
また、25%という数字にしても、EUの1990年比での2020年までの削減目標は20%であり、既にEUは2005年までに4%を削減している。方や日本は2005年で7%増大している。これまでの自公政権が、温室効果ガスの削減に対して不屈の精神を持たず、戦略もなく、対応してきたためである。
温室効果ガス25%削減の道は日本の構造改革の道であり、日本再生への茨の道でもある。今回の宣言が、その戦いの宣戦布告だという気概をもって、政府は早く、25%達成に対する負の力を示しつつ、それを乗り越えて目指す21世紀の日本の骨格を提示し、国民と共に知恵と汗をかき、実験を積み重ねながら潔く進んでいって欲しい。
2009年10月8日木曜日
再生の道を誤る?自民党新体制
自民党は谷垣新総裁の下、新たなスタートを切った。先の衆議院選挙では優秀な中堅・若手が落選し、党の不良資産とも言える守旧派が比例区で復活当選している。このため、党再生のプロセスがどのように進むか非常に関心がある。
どの自民党議員も解党的出直しとか、保守層支持を取り戻す政策を訴えるとか、地方組織の建て直しなどを謳っている。個別に見れば、どれも党再生の道としてはその通りだと思う。しかし、自民党は大きな過ちを既に犯している。それは、先の総裁選で河野氏が訴えた解党的出直し策を葬り去ったことである。更にその河野氏を抑える目的で森氏が暗躍し、西村氏の立候補を働きかけたことである。不透明な派閥力学、守旧の体質・構造が実際にはまったく変えられていないのである。
自民党は抱えている問題の本質に切り込んでいけていない。一部の報道機関が先の衆議院選挙敗北の原因に、「自民党総裁や閣僚の自責点」を挙げているが、これは再生の方向を見誤らせている。自民党が抱えている問題は大きな氷山のようなもので、根っ子は、族議員と称する利権を縦にした集団と裏で党を操る黒幕に象徴される、動脈硬化した古い党の体質である。
そして氷山の一角として表に見えてきていたものの一つが、政官業の鉄のトライアングルといわれる利権構造の癒着である。国民の税金で私腹を肥やす政治をし、国民を蔑ろにしてきた自民党にNOを突きつけたのが先の衆院選挙結果なのだ。
自民党がこれから進むべき道は1955年結党以後年々硬直化していった組織のペレストロイカである。旧ソ連でも戦後40年以上続いてきた共産党組織の解体に多くの血と汗を流したが、自民党も同じように古い組織の新陳代謝を図るには大掛かりな手術が必要なはずである。
しかし、残念なことだが、これまでの自民党の動きは、
1. 衆院選挙での自民惨敗判明後すぐにスキャンダル追及の話しを口にした大島氏と町村氏が新体制に大きく影響を及ぼす構造になっている。
2. 谷垣氏は政党政治をやろうとして、政策通の加藤鉱一氏を予算委筆頭理事に内定したが、その目論見がもろくも町村氏の横槍で崩れてしまった。そしてその理事に町村氏が就いた。
3. 総裁選では過激なまでに、黒幕一掃を訴えた河野氏であったが、結局その声は取り上げられず、自民党が変わるという姿勢が潰された。
4. 次の参議院補選での公明党票取り込みのお願いをまたしてもやった。結果的には公明党の同調が得られなかったようだが、一から自民党を立て直す気骨が見られない。自民党の弱体化をもたらした3バンの麻薬から抜け出そうとする努力すらしていない。
国民不在の対応を相変わらずしている。
実は1993年の細川政権誕生で下野した際にも、党組織を再生させる良い機会があった。1980年代後半から細川政権誕生までの当時、自民党と社会党は収賄事件を起こし、政治不信が大きな社会的問題になった。国民の審判により、自民党と社会党は大きく議席を減らしたのであるが、自民党がやったことといえば、ご存知のように党組織の改革ではなく、細川氏の佐川急便グループからの借入金処理問題を政権発足の2ヶ月後の10月から徹底的に追及し、そして予算審議拒否を行なうことだけだった。勿論この問題は、細川政権崩壊後はうやむやになってしまう程度のものに過ぎなかったのだが、姑息な手練手管で政権の座にただ戻ろうとしたのだ。
また自民党は社会党とともに政治改革関連法案を否決さえした。世論を無視する暴挙を行ったのである。そして政局を混乱に落としいれ、政党政治の成長の芽を摘んでしまった。結果として無党派層が大きくなり日本の政治が停滞するという大きな痛手を負ったのだった。そのツケが今となっては大きく自民党自身に重く圧し掛かっているわけだが、勿論国民の生活も政治から置き去りになり、また日本経済の国際社会における地位の低下も甚だしく顕著になった。
こんな自民党を政権の座に復帰させたことは国民の大きな反省材料であるが、当時それに代わりうる受け皿が無かったのも事実であった。
しかし今回は違う。事前に十分に政権交代を準備した民主党がいる。そして、硬直化した危機的状況にある日本を救うために、「政権交代」という大きく舵を切る選択を国民がしたのである。是非ともこの大きなうねりを継続し日本を改革し、日本を甦らせないと本当に沈没してしまう。
しかし、今の自民党にはその危機感が見られない。今回の新体制を見る限りにおいては、またしても1994年に政権の座に戻ったのと同じ流儀を取ろうとしているかのようだ。
例えば、政治と金の関係で、収賄事件がおきているわけではないのに、鳩山首相の政治献金の処理問題を最重点に置こうとしている。政治を混乱させて予算成立を阻み民主党の足を引っ張ろうとしているかのようだ。
半年前まで景気対策が最重要だと言っていたのは何処のどいつだ。社会保障基盤の立て直しにしても、税金の無駄使いにしても大きくメスを入れなければならない状況が目の前にあるのに、やはり自民党にはこれらが見えていないようだ。
こんな自民党には参議院補欠選挙も含めて国民は「大喝」を食らわせるべきだ。国民は自民党が国民生活に密着した政策論議をしっかりと行っているか、また国民生活をよりよい方向に持って行こうとしているか監視をすべきだ。スキャンダル追求だけの混乱を意図した対応には断固として、国民は立ち向かうべきだ。それが結果的に自民党を真に立ち直らせることに繋がるのだ。そして成熟した政党政治の実現に向かって一歩前進するのだ。
「政権交代」を選んだ我々国民は覚悟を持って「政権交代」を育てる責任があると思う。
どの自民党議員も解党的出直しとか、保守層支持を取り戻す政策を訴えるとか、地方組織の建て直しなどを謳っている。個別に見れば、どれも党再生の道としてはその通りだと思う。しかし、自民党は大きな過ちを既に犯している。それは、先の総裁選で河野氏が訴えた解党的出直し策を葬り去ったことである。更にその河野氏を抑える目的で森氏が暗躍し、西村氏の立候補を働きかけたことである。不透明な派閥力学、守旧の体質・構造が実際にはまったく変えられていないのである。
自民党は抱えている問題の本質に切り込んでいけていない。一部の報道機関が先の衆議院選挙敗北の原因に、「自民党総裁や閣僚の自責点」を挙げているが、これは再生の方向を見誤らせている。自民党が抱えている問題は大きな氷山のようなもので、根っ子は、族議員と称する利権を縦にした集団と裏で党を操る黒幕に象徴される、動脈硬化した古い党の体質である。
そして氷山の一角として表に見えてきていたものの一つが、政官業の鉄のトライアングルといわれる利権構造の癒着である。国民の税金で私腹を肥やす政治をし、国民を蔑ろにしてきた自民党にNOを突きつけたのが先の衆院選挙結果なのだ。
自民党がこれから進むべき道は1955年結党以後年々硬直化していった組織のペレストロイカである。旧ソ連でも戦後40年以上続いてきた共産党組織の解体に多くの血と汗を流したが、自民党も同じように古い組織の新陳代謝を図るには大掛かりな手術が必要なはずである。
しかし、残念なことだが、これまでの自民党の動きは、
1. 衆院選挙での自民惨敗判明後すぐにスキャンダル追及の話しを口にした大島氏と町村氏が新体制に大きく影響を及ぼす構造になっている。
2. 谷垣氏は政党政治をやろうとして、政策通の加藤鉱一氏を予算委筆頭理事に内定したが、その目論見がもろくも町村氏の横槍で崩れてしまった。そしてその理事に町村氏が就いた。
3. 総裁選では過激なまでに、黒幕一掃を訴えた河野氏であったが、結局その声は取り上げられず、自民党が変わるという姿勢が潰された。
4. 次の参議院補選での公明党票取り込みのお願いをまたしてもやった。結果的には公明党の同調が得られなかったようだが、一から自民党を立て直す気骨が見られない。自民党の弱体化をもたらした3バンの麻薬から抜け出そうとする努力すらしていない。
国民不在の対応を相変わらずしている。
実は1993年の細川政権誕生で下野した際にも、党組織を再生させる良い機会があった。1980年代後半から細川政権誕生までの当時、自民党と社会党は収賄事件を起こし、政治不信が大きな社会的問題になった。国民の審判により、自民党と社会党は大きく議席を減らしたのであるが、自民党がやったことといえば、ご存知のように党組織の改革ではなく、細川氏の佐川急便グループからの借入金処理問題を政権発足の2ヶ月後の10月から徹底的に追及し、そして予算審議拒否を行なうことだけだった。勿論この問題は、細川政権崩壊後はうやむやになってしまう程度のものに過ぎなかったのだが、姑息な手練手管で政権の座にただ戻ろうとしたのだ。
また自民党は社会党とともに政治改革関連法案を否決さえした。世論を無視する暴挙を行ったのである。そして政局を混乱に落としいれ、政党政治の成長の芽を摘んでしまった。結果として無党派層が大きくなり日本の政治が停滞するという大きな痛手を負ったのだった。そのツケが今となっては大きく自民党自身に重く圧し掛かっているわけだが、勿論国民の生活も政治から置き去りになり、また日本経済の国際社会における地位の低下も甚だしく顕著になった。
こんな自民党を政権の座に復帰させたことは国民の大きな反省材料であるが、当時それに代わりうる受け皿が無かったのも事実であった。
しかし今回は違う。事前に十分に政権交代を準備した民主党がいる。そして、硬直化した危機的状況にある日本を救うために、「政権交代」という大きく舵を切る選択を国民がしたのである。是非ともこの大きなうねりを継続し日本を改革し、日本を甦らせないと本当に沈没してしまう。
しかし、今の自民党にはその危機感が見られない。今回の新体制を見る限りにおいては、またしても1994年に政権の座に戻ったのと同じ流儀を取ろうとしているかのようだ。
例えば、政治と金の関係で、収賄事件がおきているわけではないのに、鳩山首相の政治献金の処理問題を最重点に置こうとしている。政治を混乱させて予算成立を阻み民主党の足を引っ張ろうとしているかのようだ。
半年前まで景気対策が最重要だと言っていたのは何処のどいつだ。社会保障基盤の立て直しにしても、税金の無駄使いにしても大きくメスを入れなければならない状況が目の前にあるのに、やはり自民党にはこれらが見えていないようだ。
こんな自民党には参議院補欠選挙も含めて国民は「大喝」を食らわせるべきだ。国民は自民党が国民生活に密着した政策論議をしっかりと行っているか、また国民生活をよりよい方向に持って行こうとしているか監視をすべきだ。スキャンダル追求だけの混乱を意図した対応には断固として、国民は立ち向かうべきだ。それが結果的に自民党を真に立ち直らせることに繋がるのだ。そして成熟した政党政治の実現に向かって一歩前進するのだ。
「政権交代」を選んだ我々国民は覚悟を持って「政権交代」を育てる責任があると思う。
2009年9月28日月曜日
古い利権構造温存狙う相変わらずの自民党―八ッ場ダム推進―
八ッ場ダム建設中止に関して先日小論を展開させて頂いたが、その中で住民の反対行動を裏で操る黒幕がいて、いずれ尻尾を出すだろうと言わせて頂いた。それが早くも姿を現した。自民党はつい先日、自民党県議で作る「八ッ場ダム推進議員連盟」を立ち上げた。この動きの延長上に黒幕の本丸がいる。
まず現状を今一度整理する。建設推進派の顔として表に見えている、大澤正明知事と高山欣也長野原町長がいる。彼らの素性をざっと整理する。大澤知事は平成15年には自民党群馬県連幹事長をやっていた。また高山町長は元八ッ場ダム代替地分譲基準交渉委事務局長をやっていた。「県連幹事長」とか「分譲基準の事務局長」などといういかにも利権にどっぷりとつかりそうな役職を手掛けて来た。
一般的に言ってダム建設に纏わる利権構造の話しに事欠かないのは、歴史の事実であるが、この八ッ場ダム建設でもきな臭い二人の顔が見えているのだ。彼らがダム建設推進とわめけばわめくほど胡散臭さが深まると言う構造に彼らは気が付いていないのか。
あたかも被害者住民の声をバックに正義を持って動いていると言うシナリオを描いているのであろうが、過去のお金の流れ、これまで掛かった経費の再査定、なおかつこれから掛かるであろうと見積もられている金額の妥当性検証を進めていく中で本当の姿が浮かび上がってくると言うものだ。
それらを情報公開することを国には求めたい。これらの事実を公開することにより、本当の政治構造改革が達成されると思う。
勿論、翻弄され続けてきた地元住民の心のケア、生活再建と長期的視点での過疎解消と活性化の誘導を進めていくことは、今後の地域分権政策を具体的に展開していく上でも非常に重要な第一歩である。この認識を持って、国は事に当たってもらいたい。
この問題は国交省だけの問題ではなく、総務省、行政改革会議、財務省にまたがる横断的な対応が必要な問題である。旧来の縦割り官僚政治構造では対応できなかった問題だけに、腰を据えてやらなければならないものである。
ダムの問題は戦後64年に亘って続いた自民党政権下で蔓延した、硬直化した利権構造の問題の典型的なものである。歴史的には、そのような構造的問題を放置したら日本が沈没してしまうと言う危機的状況にまできてしまったのだが、どうも今の自民党にはその認識が無いようだ。
その証拠に、八ッ場ダム推進議連を立ち上げ、古い利権構造の甘味を享受しようとしている。この動きは単に民主党政策の実行を阻み、かく乱させ、日本を混乱に陥れてもいいから旧来の自民党政権を復古させ、再び古い利権構造の甘味を享受しようともくろむ以外の何物でもない。黒幕はこれからも強い抵抗をするだろう。
現在進めている次の自民党の総裁を選ぶ選挙でも、自民党の不良債権的分子を整理しないで旧来の構造を温存する人間が選ばれそうな動きである。彼らは細川政権の際に演じた誤りをまた繰り返そうとしている。前回もそうであったが、歴史に合わなくなった自民党の構造自体を改革することなく返り咲こうとする、柳の下の二匹目のドジョウを狙っているだけなのだ。成熟した政党政治の実現のためにも、お家事情で党を運営するとか、政策を決めるなどといった体質から脱却し再起をしてもらいたい。
まず現状を今一度整理する。建設推進派の顔として表に見えている、大澤正明知事と高山欣也長野原町長がいる。彼らの素性をざっと整理する。大澤知事は平成15年には自民党群馬県連幹事長をやっていた。また高山町長は元八ッ場ダム代替地分譲基準交渉委事務局長をやっていた。「県連幹事長」とか「分譲基準の事務局長」などといういかにも利権にどっぷりとつかりそうな役職を手掛けて来た。
一般的に言ってダム建設に纏わる利権構造の話しに事欠かないのは、歴史の事実であるが、この八ッ場ダム建設でもきな臭い二人の顔が見えているのだ。彼らがダム建設推進とわめけばわめくほど胡散臭さが深まると言う構造に彼らは気が付いていないのか。
あたかも被害者住民の声をバックに正義を持って動いていると言うシナリオを描いているのであろうが、過去のお金の流れ、これまで掛かった経費の再査定、なおかつこれから掛かるであろうと見積もられている金額の妥当性検証を進めていく中で本当の姿が浮かび上がってくると言うものだ。
それらを情報公開することを国には求めたい。これらの事実を公開することにより、本当の政治構造改革が達成されると思う。
勿論、翻弄され続けてきた地元住民の心のケア、生活再建と長期的視点での過疎解消と活性化の誘導を進めていくことは、今後の地域分権政策を具体的に展開していく上でも非常に重要な第一歩である。この認識を持って、国は事に当たってもらいたい。
この問題は国交省だけの問題ではなく、総務省、行政改革会議、財務省にまたがる横断的な対応が必要な問題である。旧来の縦割り官僚政治構造では対応できなかった問題だけに、腰を据えてやらなければならないものである。
ダムの問題は戦後64年に亘って続いた自民党政権下で蔓延した、硬直化した利権構造の問題の典型的なものである。歴史的には、そのような構造的問題を放置したら日本が沈没してしまうと言う危機的状況にまできてしまったのだが、どうも今の自民党にはその認識が無いようだ。
その証拠に、八ッ場ダム推進議連を立ち上げ、古い利権構造の甘味を享受しようとしている。この動きは単に民主党政策の実行を阻み、かく乱させ、日本を混乱に陥れてもいいから旧来の自民党政権を復古させ、再び古い利権構造の甘味を享受しようともくろむ以外の何物でもない。黒幕はこれからも強い抵抗をするだろう。
現在進めている次の自民党の総裁を選ぶ選挙でも、自民党の不良債権的分子を整理しないで旧来の構造を温存する人間が選ばれそうな動きである。彼らは細川政権の際に演じた誤りをまた繰り返そうとしている。前回もそうであったが、歴史に合わなくなった自民党の構造自体を改革することなく返り咲こうとする、柳の下の二匹目のドジョウを狙っているだけなのだ。成熟した政党政治の実現のためにも、お家事情で党を運営するとか、政策を決めるなどといった体質から脱却し再起をしてもらいたい。
2009年9月22日火曜日
八ッ場ダムに纏わる事実を何故報道しないのか
八ッ場ダムの建設中止決定に対して地元住民の白紙撤回要求や関連する1都5県関係者の反対行動などが昨今マスコミを賑わしている。
どのようなことでも賛成派と反対派はいるものだ。身近なところでは夫婦の議論もあれば、地球規模での国対国の交渉にも賛成と反対が付き物である。
だから前原大臣には凛として事に対処して頂きたい。
大切なことは、地元住民と称する一団の昨今の行動の裏に何があるかと言う事実の解明と、そもそも八ッ場ダム建設が歩んできた歴史・問題点が何で、そして何処の着地点が今後の地域分権・地域活性化を実現する上で最適解かを明らかにしていくことだと思う。
しかし、現状はと言うと、マスコミは住民の言動の感情的な面しか取り上げていない。ミクロな視点でのYESだNOだという低レベルの議論しか見えてこない。また、今日公明党の山口新代表が現地を訪れたが、まるでお涙頂戴的なレベルの切り込みしか出来ないさもしさを演じている。
公明党の現地入り工作や住民の反対行動の裏で糸を引いている黒幕が居るのは確かだろう。いずれ尻尾を出すであろうが、守旧派であることは間違いない。
残念なことに既に日本では、50年を費やしてもまだ十分な解決に至っていない八ッ場ダム建設の大きな問題を議論する民主主義の土壌すらも枯れてきているようだ。マスコミは「国民の知る権利」を代行するなら、問題を多面的に捉えて報道すべきだ。普通に考えて、50年間かけても建設できない、強硬な反対を続けてきた過去が何故、一転建設促進に変わるのか疑問に思う。マスコミはこの点を国民に分かるように説明すべきだ。地元住民も説明すべきだ。
民主党は、八ッ場ダム建設中止に至った事の経緯を丁寧に説明し、八ッ場ダム建設がおかれている状況を説明すべきだ。
このような当たり前のことが、これまでの自公政権では出来なかったのが最大の問題点だったのだから、これからは一歩一歩積み上げていく事が必要である。
どのようなことでも賛成派と反対派はいるものだ。身近なところでは夫婦の議論もあれば、地球規模での国対国の交渉にも賛成と反対が付き物である。
だから前原大臣には凛として事に対処して頂きたい。
大切なことは、地元住民と称する一団の昨今の行動の裏に何があるかと言う事実の解明と、そもそも八ッ場ダム建設が歩んできた歴史・問題点が何で、そして何処の着地点が今後の地域分権・地域活性化を実現する上で最適解かを明らかにしていくことだと思う。
しかし、現状はと言うと、マスコミは住民の言動の感情的な面しか取り上げていない。ミクロな視点でのYESだNOだという低レベルの議論しか見えてこない。また、今日公明党の山口新代表が現地を訪れたが、まるでお涙頂戴的なレベルの切り込みしか出来ないさもしさを演じている。
公明党の現地入り工作や住民の反対行動の裏で糸を引いている黒幕が居るのは確かだろう。いずれ尻尾を出すであろうが、守旧派であることは間違いない。
残念なことに既に日本では、50年を費やしてもまだ十分な解決に至っていない八ッ場ダム建設の大きな問題を議論する民主主義の土壌すらも枯れてきているようだ。マスコミは「国民の知る権利」を代行するなら、問題を多面的に捉えて報道すべきだ。普通に考えて、50年間かけても建設できない、強硬な反対を続けてきた過去が何故、一転建設促進に変わるのか疑問に思う。マスコミはこの点を国民に分かるように説明すべきだ。地元住民も説明すべきだ。
民主党は、八ッ場ダム建設中止に至った事の経緯を丁寧に説明し、八ッ場ダム建設がおかれている状況を説明すべきだ。
このような当たり前のことが、これまでの自公政権では出来なかったのが最大の問題点だったのだから、これからは一歩一歩積み上げていく事が必要である。
異論反論!民主党官僚会見禁止への読売新聞社説へ
9月18日付け読売新聞社説「官僚会見禁止」に対し、率直に異論反論を申し上げる。
読売新聞だけではないかも知れないが、読売新聞は報道機関の本来の使命を全うできていないのに、更に言うなら己の立ち位置をわきまえずに「言葉の遊び、更に言うなら表層的視点」で官僚会見禁止への論を張っている。
社説の論理構造は、官僚幹部の公式記者会見は、「国民の知る権利」を報道機関が代行しているのであり、その報道機関の取材機会制限は「知る権利」を奪うと言うものである。更に報道機関が国民に代わって行政機関を監視する役割を担っているとまで言っている。
確かにこの部分だけの論理構造を見れば主張としては筋が通っている。だからこそ質が悪い議論の展開なのだ。
しかし、物はマクロに見ないとミクロな重箱を突っつく議論から抜け出せないのも事の本質だ。
客観的に最近の報道機関の行状を見渡し、上記で論を張る、「国民の知る権利」の代行あるいは行政機関の監視代行が本当に行われているだろうかと問いたい。
答えは否である。
まず、報道機関は国民の視聴率を獲得するという構造で儲けているため、国民を如何に扇動するかと言う表層的キャッチフレーズだけに始終している。このため腰の据わった継続的事実の追求とか現象の裏に潜む本当の姿の解明と言った事実の掘り下げなどがまったくと言っていいほど出来ていない。
この良い事例が小泉「劇場型政治」の報道機関の取り扱い方であったことは皆さんの記憶にも新しいことと思う。そして、劇場型政治の歪が現実にあったのに、陰の部分を地味だが追及した報道機関がどれほどあったのだ。どの報道機関も金太郎飴のように切り口が同じだったでは無いか。
つまり一発の打ち上げ花火のように国民の衆目を集めることだけはやるが、その後がどうなっているかと言うフォローも無ければ追求も無い。
これで本当に「国民の知る権利」を代行していると言えるだろうか。
また、最近の事例では新型インフルエンザのワクチンの準備についてだが、今年5月ごろは異常なまでに過敏に報道していたが、6月以降、WHOはパンデミックに危険度を上げたのに、日本国内のワクチン供給体制は休業になり、8月に国内流行が増え始めて慌ててさてどうすると言った行政がなされてきたが、報道機関は一体何をしたと言うのだ。これでよくもまあ行政機関を監視する任があると言えるものだ。
上記では奇麗事を言っているが、やっていることはまったく別なのだ。
とくに読売新聞には自らの立ち位置を猛省してもらいたい一件がある。さる2月ローマでのG7財務大臣・中央銀行総裁会議で中川大臣が朦朧会見をした際、その前の昼に読売新聞女性記者も一緒に、大臣が酩酊するまでワインを飲んだという事実があるのに、朦朧会見の一件が明るみに成っても、ひたすら息を殺して嵐が過ぎるのを待つという行状をしていなかっただろうか。しかも会議から抜け出してワインを飲んでいたと言う話だったと記憶している。
読売新聞は総括をしたのだろうか。新聞紙面一面を使って国民に謝罪および説明責任をしたのであろうか。私の記憶は朦朧としていてよく覚えていない。
読売新聞はこのような体質でよくも正義感ぶって「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」をすると言えるものだ。
ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。
今回の「官僚会見禁止」に関しては色々な意見があると思う。ただはっきり言えることは従来の「官僚幹部の公式記者会見」の持つ意味は、読売新聞が指摘する「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」の機能はまったくと言って良いほど果たしていないと言う事実である。それより官僚の大先輩である藤井財務大臣が昔と今とを対比させた上で、「官僚会見禁止」を訴えている論の方がどれほどか信頼が置けるというものだ。
もう一度報道機関に言いたい。よくテレビで「我々取材班は」と正義ぶって社会の悪と戦うかのような演出をしているが、これはマスコミという公器を使った暴力以外の何物でもない。もっと地に足をつけた報道機関の本来の使命を取り戻さないと、郵政民営化議論の際にマスコミに何処からとは言わないが一部の利益団体から多額の金が流れ、国民世論を操り、本当の意味での「国民の知る権利」を覆ってしまった罪をまた繰り返すことになる。
報道機関自身が民主主義を潰していないかという自問をこれからもしていくことを求めたい。
読売新聞だけではないかも知れないが、読売新聞は報道機関の本来の使命を全うできていないのに、更に言うなら己の立ち位置をわきまえずに「言葉の遊び、更に言うなら表層的視点」で官僚会見禁止への論を張っている。
社説の論理構造は、官僚幹部の公式記者会見は、「国民の知る権利」を報道機関が代行しているのであり、その報道機関の取材機会制限は「知る権利」を奪うと言うものである。更に報道機関が国民に代わって行政機関を監視する役割を担っているとまで言っている。
確かにこの部分だけの論理構造を見れば主張としては筋が通っている。だからこそ質が悪い議論の展開なのだ。
しかし、物はマクロに見ないとミクロな重箱を突っつく議論から抜け出せないのも事の本質だ。
客観的に最近の報道機関の行状を見渡し、上記で論を張る、「国民の知る権利」の代行あるいは行政機関の監視代行が本当に行われているだろうかと問いたい。
答えは否である。
まず、報道機関は国民の視聴率を獲得するという構造で儲けているため、国民を如何に扇動するかと言う表層的キャッチフレーズだけに始終している。このため腰の据わった継続的事実の追求とか現象の裏に潜む本当の姿の解明と言った事実の掘り下げなどがまったくと言っていいほど出来ていない。
この良い事例が小泉「劇場型政治」の報道機関の取り扱い方であったことは皆さんの記憶にも新しいことと思う。そして、劇場型政治の歪が現実にあったのに、陰の部分を地味だが追及した報道機関がどれほどあったのだ。どの報道機関も金太郎飴のように切り口が同じだったでは無いか。
つまり一発の打ち上げ花火のように国民の衆目を集めることだけはやるが、その後がどうなっているかと言うフォローも無ければ追求も無い。
これで本当に「国民の知る権利」を代行していると言えるだろうか。
また、最近の事例では新型インフルエンザのワクチンの準備についてだが、今年5月ごろは異常なまでに過敏に報道していたが、6月以降、WHOはパンデミックに危険度を上げたのに、日本国内のワクチン供給体制は休業になり、8月に国内流行が増え始めて慌ててさてどうすると言った行政がなされてきたが、報道機関は一体何をしたと言うのだ。これでよくもまあ行政機関を監視する任があると言えるものだ。
上記では奇麗事を言っているが、やっていることはまったく別なのだ。
とくに読売新聞には自らの立ち位置を猛省してもらいたい一件がある。さる2月ローマでのG7財務大臣・中央銀行総裁会議で中川大臣が朦朧会見をした際、その前の昼に読売新聞女性記者も一緒に、大臣が酩酊するまでワインを飲んだという事実があるのに、朦朧会見の一件が明るみに成っても、ひたすら息を殺して嵐が過ぎるのを待つという行状をしていなかっただろうか。しかも会議から抜け出してワインを飲んでいたと言う話だったと記憶している。
読売新聞は総括をしたのだろうか。新聞紙面一面を使って国民に謝罪および説明責任をしたのであろうか。私の記憶は朦朧としていてよく覚えていない。
読売新聞はこのような体質でよくも正義感ぶって「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」をすると言えるものだ。
ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。
今回の「官僚会見禁止」に関しては色々な意見があると思う。ただはっきり言えることは従来の「官僚幹部の公式記者会見」の持つ意味は、読売新聞が指摘する「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」の機能はまったくと言って良いほど果たしていないと言う事実である。それより官僚の大先輩である藤井財務大臣が昔と今とを対比させた上で、「官僚会見禁止」を訴えている論の方がどれほどか信頼が置けるというものだ。
もう一度報道機関に言いたい。よくテレビで「我々取材班は」と正義ぶって社会の悪と戦うかのような演出をしているが、これはマスコミという公器を使った暴力以外の何物でもない。もっと地に足をつけた報道機関の本来の使命を取り戻さないと、郵政民営化議論の際にマスコミに何処からとは言わないが一部の利益団体から多額の金が流れ、国民世論を操り、本当の意味での「国民の知る権利」を覆ってしまった罪をまた繰り返すことになる。
報道機関自身が民主主義を潰していないかという自問をこれからもしていくことを求めたい。
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