2009年9月22日火曜日

異論反論!民主党官僚会見禁止への読売新聞社説へ

9月18日付け読売新聞社説「官僚会見禁止」に対し、率直に異論反論を申し上げる。
読売新聞だけではないかも知れないが、読売新聞は報道機関の本来の使命を全うできていないのに、更に言うなら己の立ち位置をわきまえずに「言葉の遊び、更に言うなら表層的視点」で官僚会見禁止への論を張っている。
社説の論理構造は、官僚幹部の公式記者会見は、「国民の知る権利」を報道機関が代行しているのであり、その報道機関の取材機会制限は「知る権利」を奪うと言うものである。更に報道機関が国民に代わって行政機関を監視する役割を担っているとまで言っている。

確かにこの部分だけの論理構造を見れば主張としては筋が通っている。だからこそ質が悪い議論の展開なのだ。
しかし、物はマクロに見ないとミクロな重箱を突っつく議論から抜け出せないのも事の本質だ。

客観的に最近の報道機関の行状を見渡し、上記で論を張る、「国民の知る権利」の代行あるいは行政機関の監視代行が本当に行われているだろうかと問いたい。
答えは否である。

まず、報道機関は国民の視聴率を獲得するという構造で儲けているため、国民を如何に扇動するかと言う表層的キャッチフレーズだけに始終している。このため腰の据わった継続的事実の追求とか現象の裏に潜む本当の姿の解明と言った事実の掘り下げなどがまったくと言っていいほど出来ていない。
この良い事例が小泉「劇場型政治」の報道機関の取り扱い方であったことは皆さんの記憶にも新しいことと思う。そして、劇場型政治の歪が現実にあったのに、陰の部分を地味だが追及した報道機関がどれほどあったのだ。どの報道機関も金太郎飴のように切り口が同じだったでは無いか。

つまり一発の打ち上げ花火のように国民の衆目を集めることだけはやるが、その後がどうなっているかと言うフォローも無ければ追求も無い。
これで本当に「国民の知る権利」を代行していると言えるだろうか。

また、最近の事例では新型インフルエンザのワクチンの準備についてだが、今年5月ごろは異常なまでに過敏に報道していたが、6月以降、WHOはパンデミックに危険度を上げたのに、日本国内のワクチン供給体制は休業になり、8月に国内流行が増え始めて慌ててさてどうすると言った行政がなされてきたが、報道機関は一体何をしたと言うのだ。これでよくもまあ行政機関を監視する任があると言えるものだ。

上記では奇麗事を言っているが、やっていることはまったく別なのだ。

とくに読売新聞には自らの立ち位置を猛省してもらいたい一件がある。さる2月ローマでのG7財務大臣・中央銀行総裁会議で中川大臣が朦朧会見をした際、その前の昼に読売新聞女性記者も一緒に、大臣が酩酊するまでワインを飲んだという事実があるのに、朦朧会見の一件が明るみに成っても、ひたすら息を殺して嵐が過ぎるのを待つという行状をしていなかっただろうか。しかも会議から抜け出してワインを飲んでいたと言う話だったと記憶している。
読売新聞は総括をしたのだろうか。新聞紙面一面を使って国民に謝罪および説明責任をしたのであろうか。私の記憶は朦朧としていてよく覚えていない。

読売新聞はこのような体質でよくも正義感ぶって「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」をすると言えるものだ。
ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。

今回の「官僚会見禁止」に関しては色々な意見があると思う。ただはっきり言えることは従来の「官僚幹部の公式記者会見」の持つ意味は、読売新聞が指摘する「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」の機能はまったくと言って良いほど果たしていないと言う事実である。それより官僚の大先輩である藤井財務大臣が昔と今とを対比させた上で、「官僚会見禁止」を訴えている論の方がどれほどか信頼が置けるというものだ。

もう一度報道機関に言いたい。よくテレビで「我々取材班は」と正義ぶって社会の悪と戦うかのような演出をしているが、これはマスコミという公器を使った暴力以外の何物でもない。もっと地に足をつけた報道機関の本来の使命を取り戻さないと、郵政民営化議論の際にマスコミに何処からとは言わないが一部の利益団体から多額の金が流れ、国民世論を操り、本当の意味での「国民の知る権利」を覆ってしまった罪をまた繰り返すことになる。
報道機関自身が民主主義を潰していないかという自問をこれからもしていくことを求めたい。

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