2009年9月28日月曜日

古い利権構造温存狙う相変わらずの自民党―八ッ場ダム推進―

八ッ場ダム建設中止に関して先日小論を展開させて頂いたが、その中で住民の反対行動を裏で操る黒幕がいて、いずれ尻尾を出すだろうと言わせて頂いた。それが早くも姿を現した。自民党はつい先日、自民党県議で作る「八ッ場ダム推進議員連盟」を立ち上げた。この動きの延長上に黒幕の本丸がいる。

まず現状を今一度整理する。建設推進派の顔として表に見えている、大澤正明知事と高山欣也長野原町長がいる。彼らの素性をざっと整理する。大澤知事は平成15年には自民党群馬県連幹事長をやっていた。また高山町長は元八ッ場ダム代替地分譲基準交渉委事務局長をやっていた。「県連幹事長」とか「分譲基準の事務局長」などといういかにも利権にどっぷりとつかりそうな役職を手掛けて来た。
一般的に言ってダム建設に纏わる利権構造の話しに事欠かないのは、歴史の事実であるが、この八ッ場ダム建設でもきな臭い二人の顔が見えているのだ。彼らがダム建設推進とわめけばわめくほど胡散臭さが深まると言う構造に彼らは気が付いていないのか。
あたかも被害者住民の声をバックに正義を持って動いていると言うシナリオを描いているのであろうが、過去のお金の流れ、これまで掛かった経費の再査定、なおかつこれから掛かるであろうと見積もられている金額の妥当性検証を進めていく中で本当の姿が浮かび上がってくると言うものだ。
それらを情報公開することを国には求めたい。これらの事実を公開することにより、本当の政治構造改革が達成されると思う。

勿論、翻弄され続けてきた地元住民の心のケア、生活再建と長期的視点での過疎解消と活性化の誘導を進めていくことは、今後の地域分権政策を具体的に展開していく上でも非常に重要な第一歩である。この認識を持って、国は事に当たってもらいたい。
この問題は国交省だけの問題ではなく、総務省、行政改革会議、財務省にまたがる横断的な対応が必要な問題である。旧来の縦割り官僚政治構造では対応できなかった問題だけに、腰を据えてやらなければならないものである。

ダムの問題は戦後64年に亘って続いた自民党政権下で蔓延した、硬直化した利権構造の問題の典型的なものである。歴史的には、そのような構造的問題を放置したら日本が沈没してしまうと言う危機的状況にまできてしまったのだが、どうも今の自民党にはその認識が無いようだ。
その証拠に、八ッ場ダム推進議連を立ち上げ、古い利権構造の甘味を享受しようとしている。この動きは単に民主党政策の実行を阻み、かく乱させ、日本を混乱に陥れてもいいから旧来の自民党政権を復古させ、再び古い利権構造の甘味を享受しようともくろむ以外の何物でもない。黒幕はこれからも強い抵抗をするだろう。

現在進めている次の自民党の総裁を選ぶ選挙でも、自民党の不良債権的分子を整理しないで旧来の構造を温存する人間が選ばれそうな動きである。彼らは細川政権の際に演じた誤りをまた繰り返そうとしている。前回もそうであったが、歴史に合わなくなった自民党の構造自体を改革することなく返り咲こうとする、柳の下の二匹目のドジョウを狙っているだけなのだ。成熟した政党政治の実現のためにも、お家事情で党を運営するとか、政策を決めるなどといった体質から脱却し再起をしてもらいたい。

2009年9月22日火曜日

八ッ場ダムに纏わる事実を何故報道しないのか

八ッ場ダムの建設中止決定に対して地元住民の白紙撤回要求や関連する1都5県関係者の反対行動などが昨今マスコミを賑わしている。
どのようなことでも賛成派と反対派はいるものだ。身近なところでは夫婦の議論もあれば、地球規模での国対国の交渉にも賛成と反対が付き物である。
だから前原大臣には凛として事に対処して頂きたい。

大切なことは、地元住民と称する一団の昨今の行動の裏に何があるかと言う事実の解明と、そもそも八ッ場ダム建設が歩んできた歴史・問題点が何で、そして何処の着地点が今後の地域分権・地域活性化を実現する上で最適解かを明らかにしていくことだと思う。

しかし、現状はと言うと、マスコミは住民の言動の感情的な面しか取り上げていない。ミクロな視点でのYESだNOだという低レベルの議論しか見えてこない。また、今日公明党の山口新代表が現地を訪れたが、まるでお涙頂戴的なレベルの切り込みしか出来ないさもしさを演じている。
公明党の現地入り工作や住民の反対行動の裏で糸を引いている黒幕が居るのは確かだろう。いずれ尻尾を出すであろうが、守旧派であることは間違いない。

残念なことに既に日本では、50年を費やしてもまだ十分な解決に至っていない八ッ場ダム建設の大きな問題を議論する民主主義の土壌すらも枯れてきているようだ。マスコミは「国民の知る権利」を代行するなら、問題を多面的に捉えて報道すべきだ。普通に考えて、50年間かけても建設できない、強硬な反対を続けてきた過去が何故、一転建設促進に変わるのか疑問に思う。マスコミはこの点を国民に分かるように説明すべきだ。地元住民も説明すべきだ。

民主党は、八ッ場ダム建設中止に至った事の経緯を丁寧に説明し、八ッ場ダム建設がおかれている状況を説明すべきだ。

このような当たり前のことが、これまでの自公政権では出来なかったのが最大の問題点だったのだから、これからは一歩一歩積み上げていく事が必要である。

異論反論!民主党官僚会見禁止への読売新聞社説へ

9月18日付け読売新聞社説「官僚会見禁止」に対し、率直に異論反論を申し上げる。
読売新聞だけではないかも知れないが、読売新聞は報道機関の本来の使命を全うできていないのに、更に言うなら己の立ち位置をわきまえずに「言葉の遊び、更に言うなら表層的視点」で官僚会見禁止への論を張っている。
社説の論理構造は、官僚幹部の公式記者会見は、「国民の知る権利」を報道機関が代行しているのであり、その報道機関の取材機会制限は「知る権利」を奪うと言うものである。更に報道機関が国民に代わって行政機関を監視する役割を担っているとまで言っている。

確かにこの部分だけの論理構造を見れば主張としては筋が通っている。だからこそ質が悪い議論の展開なのだ。
しかし、物はマクロに見ないとミクロな重箱を突っつく議論から抜け出せないのも事の本質だ。

客観的に最近の報道機関の行状を見渡し、上記で論を張る、「国民の知る権利」の代行あるいは行政機関の監視代行が本当に行われているだろうかと問いたい。
答えは否である。

まず、報道機関は国民の視聴率を獲得するという構造で儲けているため、国民を如何に扇動するかと言う表層的キャッチフレーズだけに始終している。このため腰の据わった継続的事実の追求とか現象の裏に潜む本当の姿の解明と言った事実の掘り下げなどがまったくと言っていいほど出来ていない。
この良い事例が小泉「劇場型政治」の報道機関の取り扱い方であったことは皆さんの記憶にも新しいことと思う。そして、劇場型政治の歪が現実にあったのに、陰の部分を地味だが追及した報道機関がどれほどあったのだ。どの報道機関も金太郎飴のように切り口が同じだったでは無いか。

つまり一発の打ち上げ花火のように国民の衆目を集めることだけはやるが、その後がどうなっているかと言うフォローも無ければ追求も無い。
これで本当に「国民の知る権利」を代行していると言えるだろうか。

また、最近の事例では新型インフルエンザのワクチンの準備についてだが、今年5月ごろは異常なまでに過敏に報道していたが、6月以降、WHOはパンデミックに危険度を上げたのに、日本国内のワクチン供給体制は休業になり、8月に国内流行が増え始めて慌ててさてどうすると言った行政がなされてきたが、報道機関は一体何をしたと言うのだ。これでよくもまあ行政機関を監視する任があると言えるものだ。

上記では奇麗事を言っているが、やっていることはまったく別なのだ。

とくに読売新聞には自らの立ち位置を猛省してもらいたい一件がある。さる2月ローマでのG7財務大臣・中央銀行総裁会議で中川大臣が朦朧会見をした際、その前の昼に読売新聞女性記者も一緒に、大臣が酩酊するまでワインを飲んだという事実があるのに、朦朧会見の一件が明るみに成っても、ひたすら息を殺して嵐が過ぎるのを待つという行状をしていなかっただろうか。しかも会議から抜け出してワインを飲んでいたと言う話だったと記憶している。
読売新聞は総括をしたのだろうか。新聞紙面一面を使って国民に謝罪および説明責任をしたのであろうか。私の記憶は朦朧としていてよく覚えていない。

読売新聞はこのような体質でよくも正義感ぶって「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」をすると言えるものだ。
ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。

今回の「官僚会見禁止」に関しては色々な意見があると思う。ただはっきり言えることは従来の「官僚幹部の公式記者会見」の持つ意味は、読売新聞が指摘する「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」の機能はまったくと言って良いほど果たしていないと言う事実である。それより官僚の大先輩である藤井財務大臣が昔と今とを対比させた上で、「官僚会見禁止」を訴えている論の方がどれほどか信頼が置けるというものだ。

もう一度報道機関に言いたい。よくテレビで「我々取材班は」と正義ぶって社会の悪と戦うかのような演出をしているが、これはマスコミという公器を使った暴力以外の何物でもない。もっと地に足をつけた報道機関の本来の使命を取り戻さないと、郵政民営化議論の際にマスコミに何処からとは言わないが一部の利益団体から多額の金が流れ、国民世論を操り、本当の意味での「国民の知る権利」を覆ってしまった罪をまた繰り返すことになる。
報道機関自身が民主主義を潰していないかという自問をこれからもしていくことを求めたい。

2009年9月8日火曜日

薩長同盟に学べ、社民党・国民新党

民主党、社民党、国民新党による連立政権の交渉が進められています。その交渉内容の詳細は分かりませんが、概観するに社民党、国民新党が駄々をこねているようにしか見えません。少数意見にも耳を傾けるという姿勢は当然ですが、根本的に異なる3党なのですから、何から何まで一致するわけがありません。
ミクロな政策の相違を問題にすることや党利党略の相克などはもっての外です。

思うに「小異を捨てて大同につく」という諺もありますし、また当時反目していた薩摩藩と長州藩が倒幕というマクロな目的に向かって薩長同盟を結んだという歴史もあります。尊王攘夷と言いながら開国を進めたのも薩摩・長州です。豹変するのも君子です。
要はミクロなことに頑なにとらわれて「子供の政治」をするのではなく、今政治の世界に求められている、戦後64年続いてきた体制からの脱却というパラダイムシフトを進める「大人の政治」です。

少数党だから背伸びをしたいと言う気持ちもあるでしょうが、「大人の政治」を見失うようなことがあれば、それこそ国民への反逆罪です。そのような目で国民は連立協議の推移を見ていると言うことをお忘れなきようお願いします。

2009年9月3日木曜日

社民党の党利党略体質

民主党、国民新党、社民党が連立協議を始めているが、社民党の対応を見ると、今回の政権交代の意味が分かっていないのではと、首を傾げたくなる。
国民が託した今回の政権交代への期待は、戦後64年間続いてきた自民党の政治体質からの脱却、「政治の再生」「経済の復興」「地域の蘇生」、つまり「世直し」である。
しかし、社民党は既にして、この原点を見失っているのではないか。

連立協議の動きを見ると、社民党のスタンスは社民党の「埋没」を恐れるという、自分の党のことしか考えていないように見える。これは党利党略以外の何物でもない。

例えば、「与党連絡会議」なるものを提唱しているが、何故自民党時代の与党での「部会」→「政調審議会」→「総務会」という政策決定の流れが機能しなくなり、官僚作成の政策をただ事前了承するという追認システムの連鎖になってしまったのかの分析が出来ていないのではないか。

私が思うに政策決定の階層が深くなればなるほど、官僚からの働きかけの場が増えるわけで、政策決定の透明性が崩れる。族議員なるものが生息できた素地もここにあると見るべきだろう。また責任の所在があいまいになるという問題も生まれる。
Simple is bestである。
つまり、「与党連絡会議」の案は社民党の利害のみを考えて出てきた物で、マクロ感がまったくない。

実は16年前の細川連立政権の際に演じた、「国民不在」の社会党の取った行動が党の凋落をスタートさせたのだが、当の社会党(社民党)はそうは思ってなく、当時党の方針を変更したことが原因と思っているらしい。
はっきりと言って、当時社会党も自民党と同じく、ご多分に漏れず55年体制のぬるま湯につかり、馴れ合い政治を演じていた。佐川急便疑惑では社会党も首までつかり、それに嫌気をさした国民が政治改革を望んだわけだが、選挙制度改革の法案審議で自民党と社会党は結託し審議拒否や参院での否決を演じたというのが歴史の事実ではないか。

行き着く先が、自民・社会・魁の連立政権で自民党の政権復帰となった。そして国民が長い間自民党の対極においていた社会党が国民を忘れた行動を取り始めてから一気に凋落が加速したのだ。これが歴史の事実だが、社民党はまだ当時の総括が出来ていないのであろう。今もってして、国民の目線を見失った行動を取り始めるところを見ると。

まず社民党は連立政権に入ると言っても、まず自らの足元を見直すべきだ。
今回の衆院選挙での比例代表の各党別の得票数を見ると、民主党(2984万:得票率42%)、自民党(1881万:27%)、公明党(805万:11%)、共産党(494万:7%)、社民党(300万:4%)となっていて、社民党は2005年選挙より71万票減らしている。これは国民の支持が今回も減ったということだ。

政権内での埋没を心配する前に、国民の信頼を勝ち得る政党になるために、今回の政権交代を安定的に定着させ、国民の政治への期待を確かなものとし、経済の安定的成長へと繋げていくことが今一番求められているのではないか。