2009年8月29日土曜日

「政と官」の本質を報道しないNHK

29日夜、NHKが各党首の選挙戦密着取材と称して総括の番組を組んだのを見ました。
報道は実像でなく、虚像であるのを改めて感じました。恐ろしい情報操作ですね。そもそも数多くある選挙活動のシーンの中でどこの場面の「情報を切り取り」そしてどこの場面の「情報に張り合わせるか」で話は180度変わることさえあります。実像が一気に虚像に化けるのが分かります。また、報道される各党の時間にも差別があります。これは公平と言う、衣を纏った、恐ろしく偏向された情報操作だと思います。

そして話しは続きます。報道番組で、麻生首相は仕切りに、「政策実現能力」とか、「長きに亘って日本の政治をしてきた実行力」とか、「外交力」とかを口にして、支持を訴えていました。NHKはそこまでです。

でも、真実を、透明性をもって伝えるのが報道機関の使命ではないでしょうか。今から15年以上前になると思います。今でも覚えている読売新聞の宣伝がありました。女子高校生が大人に向かって新聞を見ながら、確か「どうなの一体、透明性の確保とか規制緩和とかが必要だ」というようなことだったと思います。透明性ある報道に向かう勇気が報道機関にとって命と思います。

NHKの勇気が無いのは、麻生首相の発言がまたしても国民を騙しているのに、それを伝えていないことです。
8月27日読売新聞に「政と官」と題して野中尚人 学習院大教授と片山善博 慶応大教授の論説が載っていました。そして政策決定過程の流れ図が乗っています。
政策は各省庁の官僚が決定し、それを自民・公明与党の政調審議会、総務会がただ了承をする「追認システム」に成り下がっていると指摘しています。勿論内閣は与党から提出された政策をこれまた了承すると言う、「事前了承」の連鎖をしているのが実態なのだそうだ。政治不在です。
形骸化しているのに、「党主導」を演出し国民を騙しているのが実態なのだと思います。
麻生太郎はぬけぬけと「政策実現能力」とか、「長きに亘って日本の政治をしてきた実行力」とか、「外交力」とかを口にしています。

今回の選挙は「行政(官僚)が政治をやらない仕組みを作る」ことを目指す選挙だと野中教授は指摘されています。まさにそうだと思います。そして、「政治主導を強めるには官僚組織の透明化も必要だ」と片山教授は述べられています。

地域分権も「政と官」のぬるま湯的馴れ合い体質の創造的破壊と密接に絡んだものですが、地域経済の復興、社会基盤の整備と言う形で国民の目に直接見えるところだけに、国民としては「騙されること無く」しっかりと本質を見つめて一票を投じる責任があると思います。

とにかく自民党には「政と官」のぬるま湯的馴れ合い体質の問題の分析が出来ていないのが「自民党の本当の問題」です。でも、もしかしたら麻生太郎は本気で政調審議会と総務会が政策を作っていると思っているのかもしれません。これって「真夏のミステリー」より背筋が凍る話ですね。

2009年8月28日金曜日

変化させる勇気を示そう

連日のように麻生首相の顔がテレビに出る。連日のように「保守」と言っている。この「保守」は「保身」ということだ。言葉にも創造性がないから聞いていて飽きる。一生懸命にマイクを握っているのは認める。でも何か飽和しているという感じだな。
政治にも創造性がない。だから閉塞している。連日の演説の飽和感と、今の政治の飽和感が同じなのは、問題の本質に対し、自覚ができていないからだ。このような感性のない、「鈍」がやる政治は自覚がないからいつまで経っても「鈍」だ。

麻生首相は10日ほど前から、「景気が回復」したと言い放った。そして今日28日発表された7月の完全失業率は更に0.3%増えて5.7%。有効求人倍率も更に低下し0.42倍。消費者物価指数も-2.2%で消費低迷を物語っている。
こんな、いい加減な政治家で良いのか。言葉に責任を持て!冗談にも程がある。「鈍」の感性で政治をしているからだ。こんな首相と、この程度の政治家を首相として選んだ自民党、および結託している公明党よ、顔を洗って出直してこい。

自公両党と自公政権には「汗をかかずに、正確には汗をかいたふりをして、美味しいとこ取り」をする人間が多すぎる。知恵がなかったら汗をかけ!
汗をかかない人間は自分達の環境が変わることに抵抗する。なぜって、楽をして、儲ける仕組みが壊れて、これから汗をかくことになるからさ。つまり、「保身」に汲々している。

地球上に生命が誕生してから40億年。地球は青々と生き続けている。地球はこれまでダイナミックに環境を変えてきた。人間も生まれてから死ぬまで、体形、精神構造、感性もろもろ、変化している。皆さんも実感していると思う。変化が終わった時が、静止した「死」の瞬間だ。

政治も進化しなくてはならない。経済も進化しなくてはならない。社会も進化しなくてはならない。
自民・公明両党がしきりと言っている「守り」では「死」を待つだけだ。「変化」をすること、これが地球40億年の歴史が教えてくれる知恵だ。

確かに「変化」は知らないところを切り開いて行くので怖い。でもその緊張感が「感性」を鋭く磨くのだ。スポーツの世界を見ても分かる。お家芸と言われた柔道で、世界の変化に追随できずに敗れ去った柔道家が如何に多かったか。でも、研ぎ澄まされた感性で変化を読み、その変化を自ら行ってきた柔道家は金メダルを北京で取った。

「変化」の必要性を自覚しても、それに続く行動がなければ「守り」に入ったことと同じだ。今こそ、踏み出す「勇気」と「覚悟」で自らを運び、「運」をつかむ時だ。

黒船来航と言う変化に直面し、驚き恐れたが、国民一人一人が知恵と汗と覚悟で近代化を実現した。また軍国主義から民主主義へと8月15日を境にして大きく変わったとき、皆困惑した。でも国民の力を総結集して、復興を果たしてきた。これが日本人の特質だ。生き抜くために、大きく変わる創造的破壊が必要だ。
8月30日の選挙こそ「10里の路も9里をもって半ばとする」精神で、最後の最後まで「勇気」を示す時だ。

2009年8月25日火曜日

自民党の「冷戦構造」維持をもくろむ古い体質

自民党「政治活動」小冊子を見ながら、この小論を書いています。中身は民主党批判のものです。
この小冊子には社民党、日教組という言葉が散りばめられています。見るからに、
自民党右派と結びついている新保守主義的な集団が、冷戦時代が終焉した現在になお「冷戦構造」の舞台をセットし、1955年体制の脚本を演出することにより、保守層を取り込もうと画策しているものです。

このような古い体質で、しかも、時代錯誤の論理を振りかざし、「冷戦構造」を維持していこうとする先の野望は一体何なのか。小泉政権から安倍政権へと「右傾化」路線を進めた先になおかつ帝国主義的政治を訴えるこの小冊子の持つ意味に十分注意する必要があると思います。

今求められているのは、この帝国的政治に対して、右翼対左翼というステレオタイプの枠組みを外し、「富国の政治」を対極として育てることが、戦前軍官僚の独走で経験した日本の破局を2度と繰り返さないためにも必須です。

「政治はギャンブルじゃない」という文句が小冊子に載っています。これって「天唾」だということに気づいていないのですかね。ギャンブルの政治をしてきたのは自民党、あなたですよ。
我々国民は好むと好まざるとに関わらずに、トランプの安いカードを切るという、「安倍首相で、それが駄目なら福田首相で、それでも駄目なら麻生首相で」という自民党のギャンブルに付合わされてきたのです。その間、経済の悪化、国際的地位の地盤沈下、社会格差の拡大という借金が増えていったのです。

自民党は不良債権的政治家を切り離し、「不都合な真実」を隠蔽することなく、民主主義を熟成させる政治を積み上げていくことこそやるべきだと思います。こんな小冊子にお金と時間を使うのではなく。

2009年8月24日月曜日

自民党政治の劣化と公明党の役割 -第三幕-

2009年衆院選挙も中盤を過ぎ、ここら辺りから、「仮面」を剥いだ党の品格が出てきます。このような輩は「奇麗事を言ってはいられない、なりふり構わぬ戦いをやれ」と自己正当化をしていることでしょう。必殺仕事人に出てくる悪役商人と悪役お侍さんの姿が瞼に浮かびます。

このような出だしをしたのには訳があります。今朝の新聞で、公明党の自民党候補者への推薦は23日で272人になったと報じていました。いつものこととは言え改めて見ると、驚くべき数字です。
小選挙区定数は300名です。自民党は289名を、また公明党は8名を登録しました。そして自民党289名中の272名を公明党は推薦したわけです。実に94%強になります。推薦ですから、票割りだけでなく、創価学会の「三バン」を保証したわけです。

このような選挙協力の結果、どのような結末が待っているか、皆さんなら想像できると思います。
でも一体公明党と言う党は何物ですかね。自民党公明支部ですか?それならまだ良い方で、質が悪いと、高利貸しか「ヤク漬け」〇〇団になっていかなければ良いのですが。

世の中一般の力学に従うなら、当然「見返り」要求があると思うのが普通でしょう。するとこれって「癒着」とも別名言うのではないでしょうか。
この闇の関係を想像した時、必殺仕事人が登場してきたわけです。

でも、今回の選挙を通じて、
1. 自民党はますます弱体化し、政治の劣化が加速するでしょう。
2. 癒着の構造が「政・官・財」の間だけではないという事態が生じます。これは民主主義への冒瀆だと断言します。

慧眼なる国民の皆様、今こそ自民・公明両党協力関係の仮面の下に隠れている本質を見つめ、重大なる覚悟を持って事に臨むようお願い申し上げます。

2009年8月23日日曜日

経済成長戦略ー新国家像

昨日8月22日、日本テレビ番組「ウェークアップ!ぷらす」で2009年衆院選挙の争点<経済成長・財政再建>を取り上げ6党の代表を交えて討論を行っているのを見ました。司会の議論の問題設定の仕方・進行もよく、各党の考えかたや政策立案力の違いが浮き彫りにされ、いい番組になっていたと思います。6党の中でも民主党の福山哲郎 政調会長代理は日本経済の実情、問題点、民主党の政策をしっかりと定量的に掘り下げて説明しており、党の問題に取り組む真剣度が聞いているほうに伝わってきました。また、しっかりと勉強している、筋の通った若い政治家がいる民主党の若い力を見た思いです。
どこかの党の首相のように、定量的に経済を掘り下げた説明ができない、経済の実情をしっかりと自分の頭で考え、意味のある数字の連結として理解できていない、経済に対する直感的なセンスすらも感じさせない党とはまるで違います。

国の経済成長・財政再建・地域分権と地域経済・社会保障システムなどは多くの面を持ったサイコロの一つの面のようなもので、どれもこれもテーマとしては別々に取り上げられても、政策としては切り離されたものであってはいけません。そしてこれらをひとつ束ねているのが「政治力」だと思います。ここが重要なポイントで、これまでの自公政権の政策は各省の省益を反映した単なる政策の寄せ集めであり、それを束ねる政治が不在であるため、非常にいびつな形をした無駄の多いサイコロになっているというのが現状です。
今回の民主党提案のマクロ観はこのサイコロを無駄のない形に戻し、各々の面の政策を連結した政策として運営して行くというものだと理解しています。勿論サイコロの各面はマニフェストに書かれているように各々な色づけがあっていいものです。

昨日の福山さんは<経済成長・財政再建>という面を、しっかりと定量的に問題を捉え、かつ掘り下げ、それらを踏まえた政策として説明していました。

私は常々経済の数字の変化の意味を一生活者の目で見て、肌で感じて、考えています。
日本の経済成長をマクロ的に見た時、経済全体の供給力を表すといわれている潜在GDP(国内総生産)の成長率の推移が重要な切り口になると思っています。1990年には4%ほどありましたが、年々減少し、2000年には1%を切るくらいにまで低下しています。その後は1%前後で推移をしているのだと思います。そして、つい先日日銀が潜在GDPの成長率が1%前後より低下している可能性を指摘しており、またIMFも潜在GDPの成長率は金融危機を境にして低下していると警告しています。詳しい数字は公表されていませんがおそらく1%を下回っているのは確実な状況と思われます。

中身を見ると、潜在GDP成長率を構成する3要素(生産性、設備などの資本力、労働力)のうち、資本力、つまり設備投資が確実に1990年以降年々低下しています。それに加えて最近富に増えている失業率が潜在GDP成長率を押し下げています。
まず、国全体で設備投資が減っているということは、構造的な問題です。つまり、高度経済成長を牽引した産業構造からの政策的転換が出来ていなくて、そのまま低成長モードに入っているためだと思います。
また、設備投資が減少するということは、設備の稼働率低下も意味しており、労働者の余剰に繋がってきます。失業率の定義にあいまいさがありますが、企業内隠れ失業者も潜在GDPに反映させるべきで、そうすると内閣府の数字より実態は更に低い値になっている可能性があります。

成長戦略は、この潜在GDP成長率を如何に増やしていくかに尽きます。通常の成長率は実質GDP成長率をさしており、需要面の数字です。実質GDP成長率には輸出の影響が強く反映されますので、この数字は経済成長の構造的な問題を隠蔽してしまいます。

これまで自民党がとってきたやり方は、経済成長の構造的な問題の本質を国民の目から隠蔽し、その上で輸出依存型大企業の利益拡大で成長を演出することでした。このやり方がもたらした結末が、今我々国民が苦しんでいる、国民一人当たりの名目GDPの地盤沈下と所得再分配がなされない格差拡大です。

今回の自民党の公約もただ2%という実質GDP成長率の数字をあげているだけです。潜在GDP成長率を増やす施策については、まったく触れていません。これでは成長戦略になっていません。しかし麻生首相は成長戦略という言葉を使って国民を騙しているのです。まったく反省もなく小泉政権以降取られてきた円安誘導の輸出拡大政策を踏襲しようとするだけなのですが。

私は、日本経済の構造的な問題を解決するキーワードと方針は、
1. 中小企業力の底上げ
2. 多様化した雇用形態の活用
3. IT化の浸透と地域活性化
だと思っています。これにより潜在GDP成長率増加を目指すべきと思います。まず現状の2倍化を目標にしたらいいと思います。
中小企業は大企業の下請けという捉え方がこれまで強いですが、よく考えてみてください、今大企業といわれている会社も始めは小企業です。アメリカのベンチャ企業も小企業です。下請け的な環境から中小企業が大きく飛躍していくためにはインフラ整備をすることが政治的に重要です。
また、派遣という形態の労働力もこれまでの大企業の景気調整弁という捉え方から発想を変えて、むしろ労働市場の流動化のトレンドの先を行く雇用形態と位置づけ、積極的に活かしていく施策が求められていると思います。これに伴い、勤労者再教育システム、新しい雇用形態として社会システムに定着させる価値付与と他の雇用形態と同等の社会保障が受けられる仕組み作りが重要と思います。
私は上記の3点は民主党の雇用・経済対策の政策に繋がっているものと見ています。

今後の育成産業分野については、各党の皆さんはほぼ同様に環境分野、エネルギー分野、医療分野などを語っており、その通りだと思います。重要なのは各々の分野だけでなく、それらの分野でどのように国力に繋げていくかです。それは構造改革以外の何物でもありません。
「政治の再生」「経済の復活」「地域の蘇生」で統合的に改革することにより生まれる相乗効果で「日本列島新!改造」計画を進めることこそ民主党の戦略であるとマニフェストを読んで理解しました。

2009年8月21日金曜日

自民党政治の劣化と公明党の役割 -第二幕-

歴史的な考察も交えて「政治の再生」が急務であることを、これまで度々主張させていただきました。2009年衆院選挙は「政治の再生」へ大きく舵を切るか、それとも既に機能不全に陥っている政治の仕組み、経済の仕組み、地域社会の仕組みが続くのを甘んじて受けるか、大きな選択の選挙です。
振り子は戻る範囲を越えたら戻りません。組織は硬直化したら、元に戻るチャンスを失います。そのことは今から約70年前に政治不在の故に軍官僚の暴走を止められなかったという事実が証明しています。

さて先日、戦後の自民党政治の劣化を分析し、掲題の小論を述べさせて頂きました。その中で、原因として下記を指摘しました。
(1) 世襲議員が多くを占め、地盤・看板・鞄の苦労も無く、政治の理念も希薄
(2) 選挙票頼みの公明党との数字合わせの連立で政治の原点が見えなくなっている

今日は第二幕で、更に深く、劣化の問題の本質に迫って見たいと思います。
問題の全貌が開ける糸口は「公明党」にありました。

代々続く選挙区から出馬する世襲議員は、三バンと言う言葉で表される地盤(後援会)・看板(知名度)・鞄(資金)を何の苦労もなく受け継ぎます。そして、実は公明党議員も、世襲というスタイルこそ取っていませんが、創価学会という組織に乗っかって、堅固な地盤(抜け落ちることのない票数)、ビラを貼らなくても組織内で知れ渡る知名度、そして潤沢な資金を保証されたところからスタートしているのです。

皆さん、両者が非常に類似していると思いませんか。組織の堅固さがあるが故に三バンに匹敵していると思うのは、思い過ごしでしょうか。自民党も公明党の三バンに期待しているからこそ、連立を組んでいます。

この視点に立つと、政治の劣化の本質は、政治の原点である「国民に向き合い、国民の声に耳を傾け、国民の目線で、国民主権の政治」を行わなくても議員の職に就けるという仕組みにあることが分かってきました。だからこそ、世論を無視してこの4年間、政権の座に恋々とできたのです。もし彼らがこれからも政治家として生きて行きたいのなら、三バンあるいはそれに類する仕組みをリセットして出直すべきです。それが自らできないのであれば国民が教えてあげる必要があると思います。

成熟した民主主義では自らの意思と責任に基づき、「NO」も言える、「YES」も言う行動が必要です。これは多様の個人主義を孕んだものです。しかし、この10年間の自公政権の足跡はどうだったでしょうか。特にこの4年間、2/3の多数の暴挙で政治不在を加速してきただけでした。残念なことですが。

国民の皆様も「政治の再生」に向けて是非、動いていきましょう。

政治の再生と品格

衆議院解散から選挙まで長い長いと思いつつ、後10日になりました。
8月は日本の夏。気温も暑いです。
我々国民も気持ちを熱く、「創造的変革で甦れ、日本」を合言葉に、次世代に繋がる仕組みに「脱皮」していく、時が来ました。

政治の劣化の話はこれまで度々指摘してきましたが、自民党幹部と称する方々の最近のお言葉には、政治家の薫りがまったくない「子供の政治家」のような品格を感じます。

1985年旧ソ連のゴルバチョフ書記長が理念として掲げた「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」は、旧ソ連共産主義体制の行き詰まりと仕組みの機能不全の打開のために投じられた一石でした。これが結果的にソ連を中心とした共産主義体制の崩壊を引き出し、東西冷戦構造に幕が降りたのでした。まさに創造的破壊ですが、政治家の品格があります。
様々な曲折は経ていきましたが、民主化を目指したゴルバチョフ氏の理念と行動は今でも高く評価されています。

壮大な歴史の実験を経て、社会主義というイデオロギーはいまでは博物館に展示されるようなものなのです。もし現存するとするなら、それは人類が歩んできた歴史の中で、絶えず追い求めてきた「人間らしい尊厳と豊かさ」を一人一人の人間が持てる世の中にしたいということだと思います。

そのような思いを歴史から学んでいるなら、麻生首相が民主党の子供手当て政策に対して言った、「ばらまき、社会主義の政策だ」という表現は、出てこないはずです。
また、何を思っているのか、「革命はさせません、日本を守る」という言葉も度々口をついて出てきます。守旧派層の掘り起こしに躍起になっているのでしょうが、偏見に満ちた、子供じみた品格だと思います。
よくもまあ、これで外交の麻生だと言ってきたものです。

そのような麻生自公政権ですが、自民・公明の党の体質にも気がかりなことがあります。政治的に成熟した民主主義が今後の日本の「政治の再生」に必要なのですが、自民・公明両党は民主主義の成熟と逆行する動きしています。先の東京都都議選で世論の厳しい批判を受けた自公両党ですが、世論の真意を理解しようとするのでは無く、傲慢に自分たちの「ご都合」を押し付ける議会運営をし始めています。このような子供じみた闘争論理は、国民主権を踏みにじり、世論無視に繋がる動きであることに気が付いていないようです。これは、政党政治を否定する以外の何物でもありません。

「政治の再生」のために、大人の政治を学んでもらいたいものです。

2009年8月20日木曜日

国民が豊かになる経済成長とは?

麻生首相は2009年衆院選挙の争点として「経済成長政策の実績」と「成長戦略」という言葉を多用しています。しかし話を聞けば聞くほど、この人はまったく経済に無知な人だなと思います。これだけ経済に無知な人に景気対策を、また国の経営を任せてきたこと事態が、日本の失敗です。それにしても、「経済」という単語を並べるだけで、あたかも分かっているかのように国民に説明するのは、誤った情報を伝えることになり、国民に対する背信行為以外の何者でもありません。発言・言葉に責任の無い証拠です。「責任力」が聞いてあきれます。

さて、経済の実態を見る必要があります。公示後の演説で、経済成長政策の実績として内閣府から公表された2009年4~6月期の実質GDP(国内総生産)成長率の年率換算値3.7%を取り上げています。この値は年率換算ですので実際の4~6月期の実質GDP成長率は前期比で0.9%です。実質GDP内訳で公共投資の伸び8.1%および輸出の伸び(特に中国向け)6.3%がありますが、しかし、物価変動の影響を含む名目GDP (これは生活実感に近い指標です)では前期比でマイナス0.2%です。つまり、名目GDPは成長で無く、引き続き後退しています。さらに加えて名目と実質が逆転しており、これはデフレ圧力が高まっていることを意味しています。経済は成長モードでなく縮小モードになりかかっています。

その証拠に、実質GDP成長がプラスになったといえども、失業者の割合は増え続けています。2009年4月、5月、6月の完全失業率は5.0%、5.2%、5.4%です。この5ヶ月で1.3%も増大しています。
また、失業率と並び経済の動向を判断する上で重要な指標である、企業における「設備の過剰」は5期連続で過剰状態が続き、4~6月期の設備投資は前期比でマイナス4.3%です。

経済動向を見る指標である、「雇用の悪化」「設備投資の抑制」「デフレ圧力」全てが経済成長を示唆していません。ただ、「いざなみ景気」の時と同じように輸出で数字上実質GDPを押し上げているのです。
経済状況は、麻生首相が言うような「成長が国民実感にまだ至っていない」というような状況ではなく、経済官僚、民間エコノミスト皆様が、雇用問題が今後の最大の景気押し下げリスクである、として警戒しています。特に失業率に「企業内隠れ失業者」607万人を含めると完全失業率は13%程に達するとも言われています。仕事に従事していても賃金が前年比でマイナス8%でとなっており、また今年の夏のボーナスが1部上場企業ベースですが前年比マイナス18.3%となっており、「デフレスパイラル」の危険性が強くなっているのが実態です。

それを、麻生首相と自民党、および公明党は「目の前の景気対策」効果を自画自賛するだけで、これまでの景気対策を継続してやるとしか、今後の経済運営方針を説明していません。
これまで取ってきた経済運営が間違っているにも拘らず、です。

では何が間違っているかを次に示します。
この20年の間に、共産主義の失敗そして新自由主義の失敗も経験しました。歴史は、経済体制が脱イデオロギーへと進んでいくことを、示しています。
代わって、温暖化対策に代表されるように「地球との共生」を、また「新自由主義への規制」のもと、どのように貧困、格差と戦いながら民の豊かさを実現するかという、人類と経済の発展の歴史の原点に戻ることが求められています。
それにも拘らず、この10年間、自公政権は本来やるべき、またやれる立場にありながら、高度経済成長期以後の産業構造を変えるという「構造改革」をしてきませんでした。円安誘導で外需依存の古い産業構造を温存し、実質GDPの成長を求めただけです。1年前までは輸出依存の大企業やマネー資本主義の恩恵に与った金融業界が過去最高の収益を塗り替えるという「いざなみ景気」でした。

しかし、国民の生活レベルに関連する、国民一人当たりの名目GDPはOECD(経済協力開発機構)加盟国30カ国の中、1994年の2位、2000年の3位まではそれなりの位置にありましたが、2000年以降ランキングは下落の一歩をたどり、2006年18位、2007年23位です。この時期は小泉政権以降の時期に対応しています。つまり「いざなみ景気」の裏で国民一人ひとりの生活実感では、給与の削減、雇用の喪失などにも曝されてきており、生活苦が拡大してきたと思います。
勿論、世界経済に占める名目GDP総額割合でも2006年9.1%、2009年に8.1%の見通しで、1994年の17.9%と比較すると半分以下となっています。世界経済の中で、日本経済の存在感の低下・地盤沈下は鮮明となっています。

加えて、「いざなみ景気」の勤労者の汗は勤労国民へ還元されることはなく、国民一人当たりの名目GDPの数字以上に、働けど貧しくなるという「負の歯車に巻き込まれていく」状況が生まれてきているというのが実態だと思います。

最近は100年に一度の金融危機という言葉が麻生首相から聞こえなくなっていますが、1年ほどで景気が回復するなら、半年前にしきりと言っていた「100年に一度の金融危機」は何だったのでしょうか。
でもおそらく実態はそれに近いものになることを想定して経済政策を立てるべきで、「私どもの経済対策はあたった。(これまでの)経済対策を継続する」という自民党の見立てのレベルでは到底ないと思います。
1930年の世界恐慌では、第二の金融危機がヨーロッパで火を噴きました。今回もヨーロッパが危険です。欧州第5位の経済大国スペインの6月の失業率が18.1%に達しました。ユーロ圏16カ国の平均失業率でも9%を超えています。

歴史は当時のニューディール政策の処方箋を次のように教えてくれています。
(1) フーバー大統領は小さな政府に固執して連邦政府として財政出動をためらった。
(2) 加えて、恐慌の最中に赤字財政を改善しようとして傷を広げた。
(3) ルーズベルト大統領も当初、財政均衡を掲げたが、なし崩しにし、政府の景気刺激策を続けた。
(4) 財政発動を減らすと景気が一気に落ち込むという状態を繰り返したが、第二次世界大戦後の平和がやってきて始めて民間経済活動が自律的に回復軌道に乗った。
となっています。

今の日本でも1930年の時と同様に金融危機の第二波も見越して、当面は効率的な財政出動による景気刺激を進めると同時に、「経済の復活」と密接に関係する「政治の再生」による国民力の結集と「地域の蘇生」による中小企業力の拡充が大切だと思います。これこそ民主党の「経済成長戦略」になっているものだと思います。

2009年8月17日月曜日

自民党政治の劣化と公明党の役割

悲しむべきことですが、自民党政治の質の劣化の具体的な事例には事欠きません。中でも安倍・福田両首相が1年で一国の総理大臣の職務を放棄した事件はまだ記憶に新しいと思います。両首相は自民党総裁として圧倒的な党内支持を得て選ばれました。そして前任の首相が途中で職務放棄をすると、懲りずに同じ思考で、しかも圧倒的な党内支持で次の総裁を選び、これまた同じように1年で職務放棄をするということを繰り返したのです。麻生首相の任期はまだ1年経っていませんので、途中放棄という事態には至っていませんが、執行している政治のレベルは両先輩首相と同じです。

問題は安倍・福田・麻生首相の国の経営者としての通信簿の点数が低いということだけでなく、リリーフピッチャーのような総裁を自民党が高い支持率で選出し続けてきたという事実です。勿論国民に信を問うというプロセスはまったく行っていませんし、国民への総括もしていません。

少し考えることの出来る議員なら、自分たちが選んで国の経営を任せた総裁が行った職務放棄に対して、自民党が取った行動はどれほど不合理で、矛盾に満ちているかわかりそうなものです。しかし、実際は1度でなく、2度も行い、3度目も起こりそうになったのです。これは江戸時代も末期のお家大事で揺れ動くに等しいでしょう。

このような事態に陥った理由は色々とあるのでしょうが、
(1) 世襲議員が多くを占め、地盤・看板・鞄の苦労も無く、政治の理念も希薄
(2) 選挙票頼みの公明党との数字合わせの連立で政治の原点が見えなくなっている
これらにより、政治の質が劣化しているのです。

そして、2009年自民党公約では、世襲に対する世論の風当たりを和らげるため、世襲の制限を設けました。しかし、実はこの制限に関して面白いトリックが今回予想通り現れました。公約では引退に伴い同一選挙区での世襲候補の公認または推薦をしないとしました。そこで青森1区で津島前議員の長男が無所属で出馬することになりました。ところがここからトリックです、公明党が津島氏の長男の推薦をすることになりました。青森1区で自民党が他の公認候補を出馬させるなら、世襲議員を「公認も推薦もしない」という論理は実質的に完全に履行されますが、対立候補者を立てないとか、公明党が推薦するとかと言うことになれば、実質公認に等しく、当選後自民党に所属させるという道筋も見え見えというものです。他の選挙区でも同様です。

何故世襲に制限を設けて自律的に体質改善を進めて行かなくてはならないのか、問題の本質が分かっていないのです。つまり政治の質を劣化させてきているという自覚が無いのでしょう。

麻生首相がしきりと「責任力」なる言葉を多用していますが、おそらく責任という言葉の意味も分かっていないのだと思います。
政治の質を取り戻す、成熟した民主主義による議会政治を築き上げる、これが議員にも、国民にも求められている、今一番重要なことです。2009年衆院選挙をこの心意気で切り開いていきましょう。

自民党政治歴史検証

2009年衆院選挙に向けて争点作りがマスコミでは賑やかになっている。そのこと自体は歓迎すべきことなのですが、マニフェストの個別項目の比較で争点を作っていくやり方は「木を見て森を見ず」になる危険性があり、注意が必要です。ミクロな政策論争の前に、今後目指すべき国の姿と方向をまず議論することが必須です。そのためにはマクロな歴史認識で過去を振り返り、当時日本が直面した状況・問題と今の状況・問題とを比較する必要があります。このことにより、渦中にあっては見えにくい今後の事態の展開、問題解決の糸口を得ることが可能になります。

では今の日本を歴史の流れの中で見ることにします。
近代史では政治システムが大きく変わった時が2度有りました。第一が1868年の明治維新で、第二が1945年の第二次世界大戦敗戦のときです。この間の77年の間に急速な近代化革命が進みました。長い徳川幕藩体制がもたらした閉塞した社会、国民の自由を拘束してきた社会、世界の動きに対応できない政治システムに終止符を打ち、そして経済面でも国民の活性化により大きく成長しました。
しかし、本来の民主主義が育っておらず、政治家の汚職事件で双方の政党が非難合戦を繰り返すうちに「政党政治の崩壊」に至りました。政治不在、そして追い討ちをかける検察官僚の暴走による偽造の汚職事件デッチ上げで、日本の民主主義は息の根を止められ、次第に日本国家という組織が硬直化し、国民不在の軍官僚組織が国を動かし始めていきました。旧日本軍青年将校が暴走した5・15事件は明治維新から64年目に起きました。そして第二次世界大戦への開戦と敗戦へと突き進んだのでした。

第二の第二次世界大戦敗戦では、これを契機に全体主義的政治構造からの改革、国民主権の導入と、財閥解体、農地改革などの経済の民主化も進みました。因習的な経営層を排除し、若手抜擢を進めたこともあり、高度経済成長を遂げました。

しかし、戦後から64年経った2009年現在はどうかと言うと、明治維新から60年以上を経たときに経験した、政治の不在という状況が、同じように現れてきています。政治の不在が起きると、当然ですが国の経営には一時の休みも許されないので、官僚に実質権限を取る口実を与えます。そして、
(1) 戦前、政治家が軍官僚をコントロールできなかったように、今の自民党・公明党政権は官僚をコントロールできていません。それどころか、政策作り全てを官僚に任せています
(2) 国民不在の軍官僚組織が国を動かし始めたのと同じように、今の自民党・公明党政権の下で国民不在の官僚政治が進行しています。
その結果、
(1) 人間を人間と見ないで使い捨てる、効率化のみしか考えない「特攻」があみ出されたのと同じように、最近の派遣社員の使い捨て、団塊の世代に代表される高度経済成長を牽引した「企業戦士」の使い捨てなど、効率化のみを求めた施策が展開されてきています。
(2) また、縦割り行政、隠蔽と組織の保身体質、責任所在の曖昧さ、場の雰囲気に流される沈黙などの硬直化した組織の弊害を政治が破ることが出来ないため、官僚制が合理的なものになっていません。

政治の貧困と硬直化した官僚組織がもたらす問題には、経済の問題も大きなものとしてあります。この10年、はっきりと経済力に陰りが現れています。高度経済成長期が踊り場に達してからは産業構造を変える「構造改革」が必要なのですが、それには手を付けず円安誘導で外需依存の古い産業構造を温存して来ました。そして自民党はただ十年一日の如く「経済成長路線」という言葉だけを力説するだけです。この路線が実質的にどのように経済力に影響を与えてきたか、その実態は国民によく知らされていません。国民の生活レベルに関連する、国民一人当たりの名目GDP(国内総生産)はOECD(経済協力開発機構)加盟国30カ国の中、1994年の2位、2000年の3位まではそれなりの位置にありましたが、2000年以降ランキングは下落の一歩をたどり、2006年18位、2007年23位です。この時期は小泉政権以降の時期に対応しています。国民一人ひとりの生活実感でも、給与の削減、雇用の喪失などに曝されてきており、年々レベルダウンだと思います。そして格差の拡大を感じています。

勿論、世界経済に占める名目GDP総額割合でも2006年9.1%、2009年に8.1%の見通しで、1994年の17.9%と比較すると半分以下となっています。世界経済の中で、日本経済の存在感の低下・地盤沈下は鮮明となっています。

ところが、1年前までは過去最高の収益を塗り替えるという「いざなみ景気」拡大などの文字が新聞紙面を賑わしていました。ご存知のように利益を上げていたのは外需依存の輸出型大企業であり、またマネー資本主義の恩恵に与った金融業界でした。そして勤労国民への還元はなく、国民一人当たりの名目GDPの数字以上に、働けど貧しくなるという「負の歯車に巻き込まれていく」状況が生まれてきています。

そして、この延長上で、昨年秋葉原での通り魔事件は起きました。やり場の無い叫びを上げている個人を巨大な組織が押し潰した瞬間に絶望のマグマが爆発したものだと思います。政府の対応は歩行者天国廃止や銃刀法改正など安全・治安の確保のものだけでした。問題の本質である個人個人の生活が破壊される現場の姿を見ようとはせず作戦を立てるようなもので、官僚的以外の何物でもありません。現場を見ない作戦は太平洋戦争でもあり、そして失敗しました。

このまま、政治の不在を放置すると、戦前経験したように、「巨大な官僚組織あって国家なし」という国民不在の組織に発展していかないと誰が断言できるでしょうか。成熟した民主主義による政党政治により議会政治は新陳代謝をすべきです。また政権交代による政党主導の政治体制を進める過程で成熟した民主主義体制へと脱皮していくべきです。

戦後64年間日本の政治を支配してきたのは自民党です。一時期、非自民の政権も誕生しましたが、自民党は世論に謙虚に耳を傾け新陳代謝を図るということはせず、政権復帰を最優先にして体質を変えないまま政権の座に戻り、その後はご存知のように「選挙の票頼みの、公明党連立」でどんどん政治の質の劣化を加速してきました。
再度自民党政権の体質をまとめると、
(1) 官僚任せの政策作り
(2) 選挙票頼みの公明党との数字合わせの連立
(3) 世襲議員の占める割合の多さ
(4) 経団連企業からの献金頼み(自民党:約29億、民主党:約8000万)
(5) 世論無視で政権に恋々と居座り。安倍・福田・麻生首相と毎年のように首を変えるが小泉政権以降の総括も無ければ、憲法第1条で定める「国民主権」も踏みにじる無法者。国民の声に耳遠い、
です。

この自民党は、戦後の対共産圏冷戦構造の防波堤として、米国世界戦略の中でスタートしました。1980年代後半には東西冷戦も終焉し、世界的には脱イデオロギーの政治システムに移行して行きましたが、自民党は昔の55年体制の考え方から抜け出ていません。経済面では官僚の引いた戦後復興の高度成長路線のレールに乗って基盤を固めました。しかし高度成長期も踊り場を迎え、新たなレール作りが必要になりましたが、その歴史的転換に追随できずに、今に至っています。この新陳代謝の出来ない自民党の歴史的賞味期限はすでに切れています。

今こそ日本を再生させる「第三の波」を起こす時です。真に成熟した民主主義を根付かせ、国民の持てる力をオーケストラし、次世代に繋がる日本にする一歩とすべきときです。2009年総選挙はそういう選挙です。

2009年8月9日日曜日

知事会は「分権」劇場の三文漫才師か

今朝の新聞を見ました。地方分権公約に関するマニフェストの知事会採点表が乗っていました。
自民党60点、公明党66点、民主党58点。

実は8月3日の新聞で自公政権実績検証大会での全国知事会の数字が掲載されています。政権運営58点、政策実績56点と9グループの中で最高と言っていい評価を与えていました。

これらの数字を見ると、知事会は口角泡を飛ばして、色んなことを言っているが、本当は困っていないのではないだろうか。数字は正直にそれを物語っていると思います。つまり、
現状には60点近い満足度を与え、しかも現政権を継承する2009自公政権公約にこれまた60点以上の満足度を与えている。
そして一方でこれまでメディアを前にして、「中央集権官僚制の仕組みを変える」と豪語してきてます。
この二重性を海外から見たら、「わけの分からない国、日本の政治」と言われかねないと思います。
ひょっとしたら、これって「分権」劇場の三文漫才なのではないだろうか。

その裏付けが「中央と地方の行政システムの根本的なあり方」に深くかかわる道州制の議論でいみじくも見て取れます。
公約の文言を比較すると、2005年公約では道州制では「導入の検討を推進する」となっているのに対し、2009年公約では「検討機関の設置」となっています。実質はなんら変わっていません。
そしてその文言は、よく国会答弁に出てくる官僚的文言の「検討の推進に、前向きに善処します」から一歩も踏み出していないと思います。ある意味今後言質をとられないような曖昧さに包まれた内容です。

分権にとって核ともなる問題で、このようないい加減さを知事会は2005公約評価でも受け入れ、2009公約評価でも受け入れています。本当に知事会は地方分権を考えているのでしょうか。

しかし日本にとって、地域分権への切り込みは、非常に重要で、今の停滞した日本の政治を活性化させる道のひとつです。とくに中央官僚機構改革は今まさにやるべき時なのです。
何故なら、中央官僚機構は恐竜のように巨大化し、そして恐竜のように、環境の変化に適応できなくなっています。
そしてこの対応を間違えると戦前の陸軍省、海軍省の軍務局・参謀組織の独走に政治が歯止めをかけられなかったという苦い経験を繰り返すことになります。

知事会が描く地方分権がどのようなものか、本質をじっくり見抜く必要はありますが、これまでの流れの中ではっきりと見えてきたのは、国民が「表層の議論」でない問題の本質を見ていくことの重要性です。

2009年8月8日土曜日

官僚好みのマニフェスト点数化

マニフェストを2005年当時のもの、そして2009年のものを読み進めて、この国が直面している、そして国民の皆様が感じている将来への不安、日本社会の閉塞感、日本の国際的ポジションの地盤沈下が何故起きたのかを考えています。

そして、既に指摘されてきたことですが、”マスコミと官僚が政治を小さなものに貶めている”ことに改めて気が付きました。

マニフェストの点数評価がこのところ新聞、テレビなどで話題になっていますが、確かな確度でこの点数化の発想は官僚が仕組んだものでしょう。

会社でもそうですが、比較表と点数化をするとなにやら分かった気になるトリックなのです。一見方向が決まるようでこれらからは何も決まらないと言うのが本当の姿です。そしてこのレベルで留まってビジネスのタイミングを逸するような組織を称して、大企業病とか官僚化した組織と皆さんは呼んでいると思います。

とくに点数化は自分の決断の責任を玉虫色にするための手段です。とくに官僚のように。。。。。

今回の選挙でマニフェストを「点数化比較のレベル」に貶め、政治のあるべき姿を目くらましの状態にしているのが、マスコミであり、公平性を装った機関だと言う現実に国民は気が付くべきでしょう。
それが何故かという突っ込みも必要でしょうが、今はそう言う社会環境にあるという事実認識がむしろ重要です。

会社でも、情勢変化の風を肩で感じて、迅速に決断もって投資・撤退が出来るところは成長する企業です。リスクもありますが緊張感があるダイナミックな動きができます。
その経営常道の類推を国の経営に当てはめてみると、最初に書いた日本の現状の病根が違った角度から見えてきます。

政治も経済と同じに生き物です。世界情勢は日々めまぐるしく変わっています。政治家は会社の経営者と同じに情勢変化に迅速かつ柔軟に適応が出来ないと勤まりません。そして自民と公明両党の政治ではそれが出来ていなかった。この一点に尽きます。

今回の選挙ではこの一点のみが投票先決断のポイントだと思いませんか。もしこの10年以上にわたる自公政権の政治が国内、国際の政治課題に迅速、柔軟に対応してと感じておられるかたは賛成の一票を投じればいいし、政治の質の劣化と経済・産業構造が沈滞してきていると感じておられる方は反対の一票を投じるのが筋でしょう。非常に分かりやすい。

官僚好みの点数化により、改めて「政治の矮小化」が進み、政治危機が更に深くなるという事態には国民は「覚悟」を持って臨むべきだと思います。
政策を「覚悟」ある決断で実現する政治家を選ぶと同時に、マスコミも含めて「政治の矮小化」を加速している社会状況の中で国民も「覚悟」を持って決断をすべき時が来たと思います。