2009年7月30日木曜日

自民党政権公約2005の検証-1-

2005年政権公約の自己評価を細田幹事長が行った。その結果が昨日公表された。
「取り組み中、あるいは一部実施」がB評価で、全てB以上とのことである。

公約の議論では、2005年政権公約を実際に見る事が大事なので、下記ウェブサイトに掲載されているのでご確認頂きたい。

http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2005_seisaku/120yakusoku/

中身を見ていただければ分かるが、そもそも公約が法律上の文言のように微妙な言い回しで書かれていて、解釈でどのようにでも逃げることが出来るものになっている。

たとえば一例として「地方分権」とあわせて「地方行政改革」を断行します、と言うくだりに関連して、「道州制導入の検討を促進」があるが、あくまで「検討の促進」が目的で、「導入の促進」ではない。4年経ったいまでも道州制の道筋すら固まっていないのに、検討を促進したということでB評価になっているのであろう。
また、「(導入検討の)先行的試みとしての北海道道州制特区を推進する」と言う文言がある。ここでも特区の検討が一度でも議論のテーブルにあがれば「推進」したことになる仕掛けとなっている。
勿論4年経ても特区の概念などは存在しない。

本来公約とは実現されるべきゴールの姿が具体的であってこそ初めて意味をなすものなのだが、実態は表面的な「美辞麗句」の言い回しに終始しているため、逃げ道が張り巡らされているから公約を実施したかどうかの議論がナンセンスなものになっている。

と言うことは、公約の検証のあり方は、単なる公約実施のレベルで留まるのではなく、現場で見えている、抱えている問題に対して、「あいまいな文言を掲げた」自民党は何をしてきたのかと言う率直な視点で評価をすべきだと思う。それは国民一人一人が審判を下すものなのだと思う。

そして、その審判を下すための判断材料は必要であろうからそれをこれから提供していきたい。

まず第一回は、郵政選挙の唯一の争点として取り上げられた「民営化」と言う言葉が目指した本丸が一体何だったか、そしてその他の公約も掲げられていたが、その議論はスキップして、国民への説明責任すら果たさずに、2/3議席の暴挙で我々の生活を蹂躙したものは何だったのか。これを追って見ていきたい。

まず、郵政民営化とは一言で言えば、本丸は340兆円の郵貯・かんぽのマネーを自由に運用できるようにすることで、それは「アメリカの年次改革要望書」で書かれた、アメリカの金融会社が運用したいという要求を、小泉政権が忠実に実現させたものなのだ。「民営化と改革」という華麗な言葉に多くの国民が騙された。

上記のことは言い換えれば、新自由主義とかマネー資本主義のもとで暗躍したサブプライムローンの嵐に勢いを付け、世界を100年に一度の金融危機・不況に引きずりこんだ元凶の片棒を担いだことになる。これは非常に大きな責任問題である。

そして、郵政民営化の争点に隠された、しかし非常に重大な影を我々の生活に投げかけることになる問題の部分は、
1. 三位一体改革: 地方補助金廃止と地方交付税見直し、一方で財源委譲を拒む構造のため財政破綻の地方自治体が続出。
2. 医療制度改革: 後期高齢者医療制度で老人医療費補助の削減と老人の貯金を吸い上げる構造を実施。「安心な生活」と言う言葉とは裏腹な仕打ちをしている。
  また、産婦人科医、小児科医の減少を導き出し、多くのたらい回し失命という事態を生んだ。
  さらに、医療機関での介護的・リハビリ用ベットが廃止されることになり、路頭迷う弱者が続出。
3. 介護保険制度改革: 介護レベル認定基準が引き下げられ、介護現場での介護要レベルとの乖離という問題など、介護システムの崩壊という危機に瀕している。
4. 年金制度: 年金システムの破綻を検知していたのに、表に出さずに、社会保険庁を廃止しすることで、闇から闇に葬ろうとした。
5. 非正規労働者対策: 対策はなされず、加えて「非正規」を広く認知させて、多くの安い労働力として潜在させる構造になり、結局今回の不況で多くの失業者を生み出した。
6. 肝心要の政治改革、国会改革、公務員制度改革、地方分権などが骨抜きのままである。天下りの改革も放置されてきた。なにが「郵政民営化」を突破口にして「改革断行」だ。

である。

これらの多くの問題を抱えながら、それに目を向けず、ただ2005年政権公約達成と自画自賛している自民党はやはり、国民のための政治をしていない。自民党議員が政治家でいられるための政治をしている。
ここに、自民党の問題の本質が・本丸がある。

次回以降これを見て行きたい。

2009年7月29日水曜日

自民党政権公約2009の前に郵政選挙の政権公約2005の審判を

国民も忘れてはならない、マスコミも論理をすり替えてはならないプロセスが、2009年衆院選挙の前にある。
それは日本が真に民主主義国家になるために欠くことが出来ない非常に重要なステップだ。

それは郵政選挙自民党政権公約2005をリセットしてはならないと言うことだ。何で今国民の生活が立ち行かなくなってきたのか、郵政選挙後4年間自公政権が実行してきたことが何で、その結果がどう今の状況に結びついているのか、自民党政権公約2005を検証して始めて、自民党政権公約2009を連続性の観点から見ることが出来るのだ。そもそも公約とはそう言う性格のものだ。
「人の噂も75日」的水に流す対応は断じてあってはならない。

まず、自民党政権公約2005にはキャッチフレーズとして「郵政民営化を突破口として、日本のあらゆる改革を加速させる」とあった。勿論、国費の無駄を削ると言うこともこめて「脱・役人天国」とも謳っていた。
しかし、4年間の実情はどうであったか。例えば橋下知事らが今もって「地方分権」を声高に言っているのは何故かを考えれば答えは出てくる。

明日以降順次仔細を検証をしていくが、郵政選挙とは一体なんだったのか。実はそこには大きな罪隠しが見て取れることが分かる。

ところで、本来マスコミのミッションは迎合的な話題をタブロイド紙的に取り上げるのではなく、事象を掘り下げるプロセスを行うべきなのだが、某Y新聞の「先進国最悪の赤字をどうする」の社説では、2009年マニフェストと絡める議論の中で、大きな誤りを犯していた。

財政再建を目指す方向を重要視するのは当然として、問題は何故そこまで肥大化したのかの議論があって始めて財政再建の道筋の議論ができると言うものだ。何故2009年末に債務残高がGDP比約170%と言う800兆円超えの巨額の財政赤字になっているのだ。
自民党政権公約2005で謳った2011までに基礎的財政収支の黒字化という公約の放棄を、一言「景気悪化で不可能」で片付けている。この検証は「味噌・糞」表層レベルでしかない。

「定額給付金」あるいは「約15兆円の追加財政出動」も赤字拡大の一翼であるが、800兆円はそれでは説明の付かない数字だし、仮に景気対策費用の嵩みが問題なら、当然費用対効果の議論に基づいて、臨時の財政支出がどのように税収に跳ね返ってくるかが言えなければ単に「穴を開けた」だけになってしまう。
そして少なくとも定額給付金の効果はコンビニ売上高・全国百貨店売上高の最近の数字の低迷、下落から見て税収アップ効果は甚だ疑わしい。

というわけで、まずこれまでの自公政権の政権運営の検証を、まず財政再建論議の前にすべきではないか。他の公約についても同じで、2009政権公約の前に検証すべき内容は沢山ある。

地に足の着いた議論をマスコミもして欲しい。

2009年7月23日木曜日

反省と言う言葉で反省が了承される不思議な自民党

自民党は不思議な党だ。
ひところ「猿でも出来る反省」というキャッチフレーズが流行ったがそれを思わず思い出させる一こまが先ごろの自民党両院議員懇談会で公開された。それは以下だ。

麻生首相が「ブレた発言で、国民に不安と不信を与えて、党の結束を乱すことになり、申し訳ない」と陳謝し、それを受けて中川元幹事長が、反省を聞いてすっきりしたと言ったとかいわないとか。つまり全面的に麻生氏の反省を受け入れ、それで全てが水に流された。

この一連のやり取りって不思議だと思いませんか。

すべてが「反省と言う言葉」の記者会見だけで終わって、問題の本質が流されてしまう程、世の中って甘いだろうか。耐震偽装、事故米偽装などなど国民に不安と不信を与えた事件に対して、「不安を与えて済みません」とだけ言って許される話だろうか。

世の中の常識では、許される話ではない。だけど自民党では許される。

麻生首相の反省の対象になる内容は、指導力の欠如という個人的なレベルにとどまらず、日本の内外に麻生政権の政治レベルの低さとそれを許す国民の政治レベルの低さをアピールしたと言う、国益に関わる問題なのだ。

何故発言がブレているのか?ここに踏み込まずして、何が反省なのか。そして、問題の本質を追求するという姿勢の無い自民党の姿は、とどのつまりの中川氏の言動に集約されている。そしてこれはとりもなおさず、安倍、福田両首相を圧倒的多数で選出しておきながら、1年で政権放棄をした両氏の問題を総括してこなかった自民党の本質にしっかりと繋がっているのが見て取れるのだ。

このようないい加減な政治を許すことなく、我々国民は政党政治を力強いものに育てていく責任がある。誰のために政治をするのかと言う原点を忘れて、権力に胡坐をかく議員が多すぎる。今回の衆院選挙はまさに、政治の原点に戻るための選挙だと思う。

2009年7月20日月曜日

国際政治でもメッセージの出せない麻生政権

廃案に追い込まれることになった「北朝鮮貨物検査特別措置法案」について、廃案になったからこそ逆に浮かび上がった政府・自民党の真意の不透明さが見えてくる。そして本来なら北朝鮮の核実験に対する強い「核不拡散のメッセージ」をラクイラサミットで出すべきだったのに出せない自公政権の問題も改めて見えて来たと言うべきだろう。

以下検証する。
自民党は「北朝鮮貨物検査特別措置法案」の廃案を民主党の参院での審議不同意によるものと非難の口実に使ったが、実は政府与党自体もこの法案の成立に本腰を入れてはいなかったということが、国連安全保障理事会での北朝鮮制裁決議1874が採択されてからの一連の動きの中で見えてきたからだ。

そもそも北朝鮮制裁決議1874が何物であるか、今一度整理しておこう。
これは北朝鮮の2度目の核実験に対して取られた措置である。ここで強調すべきことは、この制裁は「核拡散の抑止」という本筋を実効的に進めていくことを狙ったものである、ということである。

そこで、制裁決議には大きく2つの内容が盛り込まれようとした。北朝鮮船舶への公海での「臨検」強化策と金融制裁である。
しかし、北朝鮮船舶への公海「臨検」強化策は、中国の反対で、「義務化」でなく「要請」となった。この時点で、この措置の実効性が弱められた。臨検は戦闘行為に結びつく危険性が高いためだ。
一方、核・ミサイル開発に関連する貿易の決済を封ずる、北朝鮮の組織・個人への資産凍結などの金融制裁強化策は、実は重要な措置であると言う認識で一致していた。1874決議採択後30日以内に追加の措置を決定する制裁委員会でもこの追加措置案を決め、中国も同意することになった。勿論日本政府もこの措置案を推進してきた。この追加措置は北朝鮮高官の渡航禁止にまで踏み込んでおり、色々な意味で制裁の実効性が期待されている。

このように見てくると、もし日本政府が本気で「臨検」を推進したいのなら、ラクイラサミットで米国とともに中国・ロシアを説得する行為に出るべきだったと思うが、そのようなアクションを麻生首相は一切取らなかった。取れなかったと言うべきかも知れない。
それどころか、オバマ大統領がサミットで「核兵器無き世界」に向けた包括戦略の支持を訴え、支持を取り付けたのに対して、麻生首相は何をやったと言うのだ。唯一の被爆国である日本が国際舞台でメッセージも出せずに、ただただ臨検を進めようとしたとなると一体日本は何を考えているのかと言うことになりはしないだろうか。

今回の廃案は、そのような不透明さを抱えたままの審議であったということが図らずも露呈されることになったと言うべきではないだろうか。

さて日本国内に目を向けると、ラクイラサミットで国益を損ねた政権を信任する自公両党という構図になり、自公両党はますます何を考えているのか分からない、と言うことになる。
もういい加減、表面的なレベルに留まっている政治はやめにして欲しい。

政治の停滞は国際的視点で損失

今の政治危機は、「誰のために政治をするのか・国会議員の立ち位置は何処か」と言う政治のイロハが分かっていない、考えていない議員が多すぎると言うことに尽きると思う。特に自民・公明両党は最低だ。
今回の内閣不信任案の全員否決行動とその後の自民党両院議員総会を巡る一連のごたごたは、はっきり言って「目先の保身行動」以外の何物でもない。信任しておきながら「見栄えの悪い」麻生首相を変えようと言う思考は、安倍・福田・麻生氏を首相に大多数で選出しておきながら、自己批判も総括も出来ずに、「これがだめならあれ」と言う、モグラ叩き的近視眼的な思考方法の延長に過ぎない。

一方で、署名を切り崩して両院議員総会を流会にした自民執行部の視点も、如何にお家騒動を抑えるかと言う点、一点に尽きる。

この間、国民は無為に、無策の自公政権の時間の浪費にお付き合いをさせられている。しかも自民・公明両党の先生方に税金を払っている。

我々はこの無駄のために、税金を払っているのであろうか。代議士として国政を託しているのだろうか。経済・国際情勢は日々変わっていく中で、無策以上に実は大きな損失を被っていると言う事実にどうして目を向けないのだろう。解散を引き伸ばし、引き伸ばし、挙句の果てに無駄な内紛。、「誰のために政治をするのか・国会議員の立ち位置は何処か」分からない今の自民・公明両党には立候補する資格すらないと言われても仕方が無いのではないだろうか。

我々国民もよく考えて日本を変えるように一票を投じる必要がある。

2009年7月13日月曜日

許すな、解散の私物化という民主主義の冒瀆を

都議選の結果が昨日でた。その他の地方自治体での知事選、市長選の結果もこれまで全国各地で出てきた。
その結果については既に国民の皆様にとっては衆知のことと思います。

しかし、残念なことにその結果の持つ意味が分からない自民党、公明党の幹部の方々が沢山いる。
いやそれが分からないどころか、その国民の審判に対して、今彼らがやろうとしていることは何を隠そう、「解散」の私物化だ。 国政を自分たちのおもちゃにし、私物化している。

議会制民主主義の日本は選挙によって、民意の代表者を選び、国民自らが権力行使する代わりに、自らの権力の行使をその代表者に託すと言う代議制である。それは地方政治も国政も同じ事で、特に現在のように地方自治の独自性が弱い中央集権体制下では、地方自治体の選挙結果は強く国政の歪を反映すると言う道理になっている。
そして、これまでの地方選挙の結果および世論調査の結果は、自公政権に権力行使を託したくないと言うことなのだ。自分たちの意を体現してもらう代表者を変えたいと言うことなのだ。

本来の民主主義なら、既に代表者たる代議士の資格が問題となっている以上、その審判を国政において速やかに問うというのが筋である。だが実態はその民意を無視し、お家の事情で動いている。これが私物化以外の何だと言うのだ。民主主義への冒瀆だ。

とにかくあほらしいことに、自民党・公明党の幹部の面々は地方選挙結果は国政と関係ないとまで言いながら、昨今の首長連合の地方自治の分権要求に対して、ごもっともと言っている矛盾が分かっていない。つまりご都合主義でどうでもいいのだ。

議会制民主主義も分からず、ご都合主義と私物化で政治をし、民意を黙殺している現状に何の危機感も無く、マンネリで政治をしていることこそが自民党・公明党の問題の本質だと言うことも分かっていない。
この極めつけの他のいい例が、先の郵政選挙で刺客を立てられ、野に下った人間を何の理念も無く、自民党に復党させるし、復党する論理は、既にして自民党代議士の資格とは何かと言う根源的な問題にぶち当たっている。こんないい加減な政党に政治を託すことが出来るだろうか。

2009年7月11日土曜日

国民の勢いで国会に津波を!Yes We Can!

目指せ、ブレ無い政治、投げ出さない政治、やりっぱなしにしない政治!!

日馬富士が横綱を目指す名古屋場所のように、また西郷さんが江戸城総攻撃の御旗を立てたときのように、勢いが巨大な力の塊となって押し進んで行く時がある。
今まさに政治の世界で、巨大な「国民に貯まった社会の歪のエネルギー」が津波のように解き放たれようとしている。

もはや何人も止められない。さあ、力を合わせよう!

ブレる麻生首相、途中投げ出しの福田、安倍両首相、痛みを伴う改革と称して受け皿を作らずやりっぱなしの小泉首相。この4年間の自公政権は、確実に我々の生活基盤の崩壊、社会基盤の崩壊、雇用・産業基盤の崩壊を放置してきた。

そして、天下るだけで巨額の財を手にする不公平さ、社会を支えるべき税金が無駄に消える仕組み、半年前の過去最高の企業利益が還元されない不透明さに対し手をこまねいている。

これらは生活格差、地方格差として目に見える形で現れてきている。自公政権は懺悔すべきだ。

しかし、自公政権は抜本的改革が出来ないという構造的問題を抱えている。加えて解散をせず、お家事情で動いているから、議員ひとり一人も、そして自公政権も選挙のことだけで頭がいっぱいでいつまで経っても腰の座った政治が出来ない。G8サミットでも海外からは足元を見透かされているために国際政治の力が発揮できず、国益を損なうことを麻生首相はやりのけた。

不良債権を放置すると負債が雪だるま式に膨張し手の施しようがなくなるのと同じように、政治負債の放置も手の施しようが無くなる。この危機に瀕しているのが、今の日本だ。

自民党内には、またしても選挙の顔のための新しい総裁を選ぶだとか、総辞職をして新しい閣僚の顔ぶれにするだとか、とにかく姑息なことをやろうとしている。これこそお家騒動だ。懺悔もせずにだ。許してはいけない。

国民は自公政権の負の遺産を早く清算させるよう声を上げるべきだ。そして受け皿として民主党に改革の旗手を任せる2大政党化の為の、大人の一歩を踏み出すべきだ。官僚任せの自公議員に比べ政策通の議員が多い民主党は頭を使った政治をやろうとしている。
国民はしっかりと監視を強めて行こう。

2009年7月5日日曜日

解散要求は国民の手で

よーく自民・公明党も、マスコミも、国民も、解散は「自民・公明党のお家事情のトランプゲームのジョーカ」でないということを認識すべきだ。麻生首相、および自民・公明党の国会議員は、国の税金で生活をしているが、国家的破綻が目の前に見え隠れしてきていると言う状況なのに、危機管理というか緊迫感というか、まったく欠けている税金泥棒だ。「解散はしかるべき」云々は、私は国際情勢は見えてません、私は経済情勢は見えてませんと言うに等しい。

何故なら、解散選挙が先送りになっているために、自民・公明党はあくまでも「選挙目当」の15兆円の財政出動を先達て決めた。この持つ意味を冷静に吟味すると、「選挙目当」のものを債務超過で用意したということだと思う。しかし、この赤字は、
(1) ただでさえ問題噴出の小泉以降の「介護・医療・年金」の制度欠陥を更に大きなものにする
(2) 選挙目当てだから長期的視点に立った雇用創出への種まきができず、今回の経済危機で明らかになった「内需が弱くて外需頼み」の構造が変わらない。つまりリストラされた人員を吸収する雇用の拡大が出来ない
(3) 従って失業が吸収できず、当然GDPは下がる
(4) GDPが下がれば税収が減り、財政赤字は更に拡大するというスパイラルに入る

こう言う危機を撒き散らしているのは、解散をせずに時間は経っていくが、抜本的な施策が打てないためだ。目先のジョーカをいつ切るかと言うお家騒動に国民を巻き添えにしないで欲しい。Time is Moneyだ。国民は黙っていてはだめだ、声を上げないと。

昨今の民主党にまつわる献金記載問題にも自民党の「お家事情」だけしか見えてこない。上記の国家的破綻の問題とは比較にならない、ちまちましたものだ。記載問題は税金が特権的利益誘導に使われる問題に繋がるものではないし、国家的背任行為での利益隠しでもない。むしろ今回の献金問題のあら捜しをしている議員の方が、ちまちました事で、税金泥棒的無駄な時間を使っているため、背任的な行為だ。自分たちがどこを見て仕事をしているか考えて欲しい。国策特殊法人などへの税金の使い方にこそ、違う衣を纏った利益誘導があるという視点に立ち、税金の使い方を論ずることこそ、政治と金の正しいあり方に繋がっていくと思う。

ところで中央集権国家システムに大鉈を打ち込もうとしている地方分権の議論は、大いに賛成だが、これは「革命」であって、自民党の内部からは絶対と言っていいほど変えられない。自民に入ってと言う東国原氏の見方はピントはずれで、これを担ごうとラブコールを送る自民党はやはり、地方分権を何も考えてませんと宣言しているようなもの。このような「お家大事」の顛末は江戸末期に近い。やはり国民の手で「黒船」を突きつける必要があると思う。動くときだ。

皆さんはどう思いますか。

2009年7月4日土曜日

政治献金

民主党の小沢前代表事務所と西松建設の献金問題で政治と金のあり方がクローズアップされて以来、国民も検察も重箱の隅の法律解釈と見かけ上のクリーンさの大儀に突き動かさられて日本の政治環境を誤った方向に導いているのではないだろうか。

政治献金のあり方を考える際、金の問題の本質は何なのか、絶えず原点に返って問い直さないと、枝葉末節の議論であるにも拘らず、それがあたかも本筋の議論であるかのような錯覚に陥る。本来マスコミが見識を持って諭すべき事柄であるが、最近のマスコミは右も左もまったく同じ論調で騒ぎ立てるだけである。無責任なことこの上なく甚だしい。食い散らかしているだけである。

話を元に戻そう。
政治家、あるいは政党は権力を行使できる立場にある。そして金は権力を補完するもので、権力行使と表裏一体のものである。我々の身近なところでも「金の切れ目は縁の切れ目」が茶飯事である。それ故に政治家、政党に流れ込む金は往々にして権力行使の方向を間違ったものにする。たとえば私服を肥やすとか、あるいは疑獄事件であったように税金を使って特定の企業・団体の利益誘導をすることなどが起きる。

では、これらの企業献金の流れの問題は何なのか。金は沸いてくるものではない、作り出すものである。不当な利益を上乗せしたり、法人税を薄めたり、あるいは国の融資、公共事業費という衣をまとった国民の税金などである。ここに権力が絡んで、権力者に有利なように操作する土壌が生まれる。この操作は納税する国民から見て著しく公平感を損なうものになる。だからこれは厳しく律すべき対象となる。

昨今問題として取り上げられている献金問題は、はたして特定の団体・企業に有利となる便宜・操作が施されているのであろうか。異なる企業・団体に不利となる状況が作り出されたのであろうか。また私服を肥やした物になっているのであろうか。金が沸いてくるものでもなければ、分けも無く消えるものでもない。収支を見れば、金の使い方は決まってくる。この金の流れに不公平感・背任行為が無ければ問題とすべきではないと思う。仮に若干の不透明感があっても、だ。

むしろ献金と利益誘導との癒着を議論し始めたら、自民党政策で保護される(たとえば法人税など)企業は利益誘導をされているという理屈にならないのだろうか。そのような議論は政治のあり方を非常に矮小化する。それより国策特殊法人などへの税金の使い方にこそ、違う衣を纏った利益誘導があるという議論をすべきでないだろうか。

おぞましいことに高い税金で生活している自民党国会議員が本来正すべき社会の不公平な仕組みを取り上げず、重箱の隅を突付くような、献金記載漏れのような、社会のあり方にインパクトを与えそうに無い問題に無駄に時間をかけている。政治を非常に小さくしている。不見識極まりない。
自民党の行為は、選挙パフォーマンス以外の何者でもなく、かつ政治のあり方を非常に歪んだものにするだけでなく、戦前に実際に起きた、虚構の汚職摘発検察ファッショを誘発し、政党政治を潰しかねない。戦前の二の舞となることを危惧する。

皆さんはどう思いますか。

2009年7月1日水曜日

政治の悲鳴を救え

日本は今、政治的危機に直面している。それも重症である。これはとりもなおさず自民・公明党政権が長きに亘って政治を小さくしてきたためだ。

一体、政治が小さいとはどういうことか。米国に追随して小泉元首相らが標榜した「小さな政府」とはまったく違う。だが奇しくも、「小さな政治」は小泉元首相から始まった。

そもそも政治とは力の行使であり、力の勾配で国家をある方向に導いていくものである。権力を権力自体がもたらす優越感のためだけに、あるいは私利のためだけに使えば国家としてはその場凌ぎの場当たり的なものにしかならない。本来政治は頭でするものである。

では自民・公明政権は、ある国家像を積み上げ、その実現に向かって我々国民に動く意欲と勢いを与えてきただろうか。
答えは否である。なぜなら自民党政治家は自らの頭で考えて政治をしてこなかったからだ。

では彼らは一体何をしてきたのか。政策面では官僚任せだ。またその場凌ぎの人気取りにしか党運営は向いていない。
政権権力の使い方を見ると、小泉政治は「劇場型」政治と言う言葉に象徴されるように、権力を行使している自分の姿を劇場の一観客として眺めるナルシスト型であった。このため執政役としては当然必要な、結果の総括をする前に、さっさと失敗の検証もせずに舞台から降りてしまった。これが政治の方向性を一気に失わせる結果となった。
そして、その後の安倍、福田、麻生の各自民党総裁は方向性が失われたにも拘らず、その修正も出来ずに、単なる人気取りと言う尺度だけで選ばれてしまった。そして権力のための権力と言う構造で動いてきたため、日本を当然の帰結であるが、間違った方向に運んできた。つまり政治が政治である所以を失い、マイクロマネジメントに終始してきているのだ。これが小さな政治の現状だ。

そして、昨今の東国原氏擁立に関連する動きを見ても、自民党はまったく反省もできていなければ、頭を使った政治に切り替えようとする意図すら見えてこない。あくまでもその場凌ぎの人気取りで藁をも掴む思いだけで動いている。国民をあまりにも馬鹿にした話だ。「そのまんまの東国原」は任期も途中で、しかも執政の総括もできていない。地方分権を謳い、地方政治云々と言いながら結局は地方政治を踏みにじる行為をやろうとしている。こんな論理も分からない「そのまんま東」に頭を使う国政を任せられるか。目先だけを変える「小泉劇場」の再演を狙っていると言う以外の何だと言うのだ。

こんな政党にこれからも国政を任せるのか。我々国民は自民党のこれまでの醜態を黙って許していいのだろうか。

更に付け加えるべき重要な視点は、公明党との選挙協力による数字操作で自民党議員が選出されてきたと言う実態である。つまり頭を使わなくても、数字のお遊びで、かつ民意から遊離しても国政を担えるという恐るべき錯覚である。

これらのツケガ大きく我々の上に圧し掛かってきているのが現実だ。しかし日本国内の惨状にお構いなく、世界はどんどん動いている。

失われた10年とか、不良資産とかという言葉が、バブル崩壊に伴って経済界に津波のように我々に襲い掛かってきたが、政治の世界でも「政治の負債」「自民党政権の背任行為」に曝されている。
郵政選挙で公認を得られなかった議員を自民党議員に復党させることを何の理念もなく平気で行うこと、また小泉政権骨太方針をうやむやのうちに国民への了承も取らずに転換するのが背任行為でなくて何が背任行為だ。数え上げたら枚挙に遑がない。

われわれ国民は、今こそ自らの頭を使って政治に参画していかなくてはならない。