2010年10月5日火曜日

司法のワイドショー化を防げ

小沢の強制起訴が検察審査会の議決で決まった、と言う報道が議決後3週間も経ってから昨日あった。これだけを聞くと、フーンだけですんでしまうが、検察審査会の議決の根拠の妥当性、議決の開示のタイミングの妥当性、顔を出さない検察審査会の責任の取り方など、一つ一つ掘り下げて見ていくとそこには、正義を纏った虚構が見え隠れする。

これこそ、「我々取材班は」という語りで展開する、正義を纏ったワイドショー報道となんら変わりがない。司法ですら、検察審査会とその報道のあり方によって、安物のショーに成り下がってしまった。
法律と言う客観化を目指したルールに則り、証拠と論理の上に組上げられるべき司法が、第三者の作成した文書(厳密に言うと検察調書)を読み、供述内容を聞くだけで、自らの足を使った直接的な情報収集もせずに判断されるという、砂上の楼閣的推定で覆されるという構造は、司法の危機である。

これまでの色々な冤罪で表に出たが、供述調書の信憑性と「検察の作文」との関係が今ほど問題となっている時期はないのに、何の反省もなく、まったく同じような有罪的報道と世論の反応が出るのは何故なのか。

よく考えてみて欲しい。大阪地検での村木さん不起訴の過程で明らかになった検察調書の虚構や証拠捏造の問題が有るにも拘らず、当初報道機関は村木さんを有罪の様に扱い、そして地検のボロが出ると今度は地検を槍玉に挙げるという反応は余りにも馬鹿げていないか。
この問題を目の前で見ていながら、今回の小沢の強制起訴報道で、村木事件の反省も無く、報道機関もまた与党も、野党も、情緒的状況証拠での推定でしかない検察審査会議決を金科玉条の如く振り翳す論理は、余りにも手前勝手な話ではないか。

そしてこれが国民の声であると言ってしまうことイコール、司法の冒瀆になっているのが気が付かないのであろうか。多勢に無勢の村八分という不条理なことを許さないために、ルールを決めそれに則り判断をしなくてはいけないのではないか。
今回検察審査会で議決をした人間は、推定無罪の小沢が晴れて無罪となったとき、今度は裁判所のあり方を起訴するのだろうか。単なる趣味集団以外の何物でもないのかもしれない。やはり責任を公にしない、責任を伴わない、検察審査会集団の有り方を厳しく問い質すべきだ。

2010年9月30日木曜日

浮き腰外交の菅

腰に絡む日本語が多い。
腰を割る、腰を据える、腰を入れる、二枚越しなどは強いものの喩えで、一方で弱腰、腰砕け、腰を抜かす、浮き腰など弱い代名詞もある。

ブレ菅とはこれまでの菅の代名詞であったが、加えて「浮腰の菅」も言い当てて妙の代名詞だ。

今日の国会答弁で、菅は中国側の対応を「わが国の国内法にもとづく粛々たる手続きを認めない姿勢があったことは大変問題があった」と言ったとか。
一方で、地検が船長を処分保留で釈放したことについて、「検察の独自の判断で適切だった」とも言っている。

なんというのかな、言葉って思想だし、思考表現なので、この一連の発言を聞くと、この人何が言いたいの?馬鹿?となる。面々と連なる思考の連鎖などなく、ある瞬間の局所的な面だけを見て、発言しているからおかしなことになる。

当初から、菅は「わが国の国内法にもとづき粛々たる処理を進める」と言っていた。この意味は、今回の事件は日本国内で起きた事件で、国内法に照らし合わせて、法に抵触する行為があったので、拘留し調べる」という論理だ。ここまでは筋が通っている。しかも地検は拘留延長を決めた。これは司法の視点で見て、「法に抵触する行為に偶然性ではなく、計画性を見出し、これを立件する」ために延長すると言う意思表示だ。ここまでは粛々と進んでいる。

そして、問題発言である、「国内法にもとづく粛々たる手続きを認めない姿勢の中国」非難発言だ。これは司法が粛々と国内法に照らして判断し処理を進めてきたプロセスが、頓挫せざるを得なかったことを認めた発言である。
一方で、不起訴処分でもない処分保留を司法的根拠も明確にせずに行った事に対して、「検察の独自の判断で適切だった」とさえ言った。
検察は法に則って判断する立場にあるのだから、粛々として進めたプロセスと釈放「検察の判断」との間に大きな論理の飛躍があるのだが、菅の頭の中ではその矛盾に気が付いていない。

一貫性がないから、中国外交をどのようにしていきたいのかがまったく決められていないなか、国内に対しても、中国に対しても、腰の据わった論理が展開できていないし、将来の関係図のイメージがテーブルに載ってこない。

こんな状態で、思いつきで来週ヨーロッパに言って来るとは、ますます何しに行くの?となる。

稚拙な思考レベルなため、二枚腰の外交が出来ていない。船長釈放は私は否定しないが、思考・行動に一貫性と知略性と強かさがないのが問題なのだ。

こんな浮腰菅は日本を本当に沈没させる。

2010年9月28日火曜日

政治主導が出来ない菅な?

昨今の政治の舞台で、菅のリーダー失格ぶりが如実に出てきているのではないだろうか。
代表選で、小沢は菅の口先だけの「政治主導」を批判してきたが、まさに実感として見えてきている。

今回の尖閣諸島を巡る問題で、どうも菅は「何とかならないか」という指示しか出せず、苛々を周りにぶつけていたようだ。

また、こんな記事も見た。今年11月開催予定のAPEC首脳会議に向けて、外相と経産相に出した指示は、「横浜で開催するAPEC首脳会議の成功に万全を期すこと」だけだったようだ。

まったく構想力もなければ創造力もない。

こんな言葉なら誰でも出せる内容だ。首相に権限と高い給料を払っているのは、このレベルの政治主導に対してではないはずだ。

もし客観的に己の姿が見えないとしたら、ますます指導者として失格だ。

でもどうしてこんな菅を民主党は選んだのか、その反省も民主党には出来ていないのではないか?

2010年9月25日土曜日

日本沈没

まず最初に私は民主党をこれまで応援してきた人間であることを言っておきたい。
しかし、菅が6月に首相になってからの言動に危機感を感じ、日本の難局を打開するリーダーたる資格がないとこれまで指摘してきた。

そして、案の定、菅は日本沈没の引き金をついに引いてしまった。

尖閣諸島で起きた領海侵犯と公務執行妨害容疑で身柄を拘束していた船長の対応を決定的に誤ったのだ。
ことの仔細は既に報道されており、多くの意見が既に展開されているが、この一件で見える現象は氷山の一角でその底部に菅政権の大きな構造欠陥が垣間見れるのだ。
それを見ていこう。
1. 菅の本件に絡む記者会見を聞きまず呆れた。政治責任を棚に上げ、検察判断に従うという、一国の総理としての発言とは思えない、「判断と責任」のない態度だ。

問題は、国内法を犯した人間を律するための司法の根幹に絡む問題、外国人を拘束するという外交問題、領土を巡る外交問題、経済も絡む広い意味での安全保障問題、国内治安の不安定化に発展しかねない政治問題などなどがあり、単なる一介の司法の視座だけで決められる問題ではない。総理大臣の判断と責任のもとで決まる処理だ。
従って、
(a) まず、今回の意思決定のプロセスと責任の所在を明確にする必要がある。
代表選でも仕切りと「透明性、クリーン」と言って来た舌の根も乾かぬうちのこの始末だけに、透明性をもって責任の所在をはっきりさせるべきだ。詭弁や二枚舌、三枚舌は聞き飽きた。
(b) (a)に絡むが「菅と仙石官邸」のいつもの暴走になっていないか、しっかりと検証する必要がある。何処まで外務省が、防衛省が把握していたか。仙石の私物ではないのだ。

2. 那覇地検の記者会見にも、びっくりした。何故司法の人間が「政治判断」に、しかも「外交判断」に言及するのだ。司法、立法、行政は分離されているのではないか。もし、地検が勝手に政治判断を入れていたら、何を信じて我々国民は司法に従えばいいのだ。司法の暴走だ。大阪地検での証拠改竄の問題といい、根本的に構造改革が必要だ。そんな司法に対して、一国の総理大臣に司法の姿勢を正す発言がないのもおかしい。
(a) しかし、穿った見方をすれば、大阪地検の問題の本質が大きいだけいに、那覇地検の人身御供と引き換えに大阪地検の問題から目を逸らさせる取引はなかっただろうか。
(b) どちらであるにせよ、司法を掌る検察は官僚であるわけだから、検察と官邸のあり方を根幹から問い直さなくては成らない。

3. 先に指摘したように今回の問題は関連する領域が多岐に渉っており、デリケートな対応が必要なのは最初から分かっていた事だ。そのため解決に向けた裏の表の外交がどれほど戦略的に行われてきたのか、検証する必要がある。
結果だけから見るとあまりにも稚拙な外交としか言えず、前原がクリントン国務長官と会談した時の内容は何だったのか。米国で外国メディアに前原が語った言葉を1日と経たずに否定させるような外交は、日本外交の敗北を意味しており、計り知れない日本沈没の危機を、引き起こしている。

早急に立て直さないと、ずるずると沈没する。菅を選んだ国民世論、民主党ははっきりと落とし前をつけるべきだ。

2010年9月21日火曜日

菅は初心者マークが手放せない

菅は何時まで初心者マークをつけていれば気がすむのだろうか?

既に閣内に副総理兼戦略相(こんなのがあったような気がするが)として入って1年が過ぎたはずだ。首相としても3ヶ月は過ぎている。

しかし、休日返上で新閣僚を集めて、議論したのは良いとしても、各省の政策実現スケジュール案を短期、中期、長期でまとめさせる指示を出したとか。これが菅の言う政治主導の姿か?

はっきり言おう。官僚と政治家の役割分担の青写真がまったく出来ていないし、したがって政治主導の構造的変革の青写真も出来ていない。1年も経つというのにだ。ただ、官僚が離反しないよう旨く使うことが政治主導だと勘違いしている。
その証拠に、小宮山洋子という、今度副大臣になったものが、先だっての民主党代表選を前にしたテレビ討論で「官僚にも働いてもらい政治家が最終決定するのが政治主導」だと、言っていた。どいつもこいつもだ、という思いに駆られる。最終決定って言うが、本当に小宮山は頭を使って、分かって話しているのだろうか?

閉塞した日本の現状打破に、これまでの肥大化した縦割り官僚行政と自省の利益目的化した官僚の政策立案が弊害となっているというのが、共通認識だったのではないか?

官僚は現在の行政の仕組みの中で、何の拘束もなく思う存分働くというのが役割だ。政治家は官僚の上位管理者というレベルではなく、行政の仕組みを国家の仕組みを作り変えるのが役割だ。質的に異なっているはずだ。
各省の政策実現スケジュールなどを提案させても所詮出てくるのは各省の官僚が描く従来の範疇を越えられないのは火を見るより明らかだ。

むしろ、既に1年も見てきているのだから、省の壁を越えた横断的な視点で、成長策を、安全保障を、社会保障を、地域分権を、地域社会と家庭の関係を、教育と人材育成をどうするか、テーマを絞って政務官に、党に工程表を作成させるのが政治主導ではないか?

早くも菅の無能さが露呈してきている。

2010年9月20日月曜日

世論調査の嘘?

菅内閣支持率の世論調査結果が昨日各マスコミ機関から発表になった。60%前後の数字でV字回復という。
しかし、6月始めに鳩山内閣の暫定内閣としてスタートした時にも同じような数字を出し、しかし菅の政治家としての資質のないのが丸見えになった参院選挙を通じて支持率がドカ貧になったのは記憶に新しいと思う。
この3ヶ月間菅は何もしていない。内閣としても仕事らしいものといったら狂牛病対策くらいであろう。成長戦略なる言葉は出たが具体的な、戦略が宿る細部は無きに等しく、結果として失業率の改善なども見えて来ていない。
今回の代表選を通じて見えた小沢の覚悟と政治家のビジョンが、光った位だが、それも馬鹿の一つ覚えの如く「政治と金」の言葉で封印された状況では、菅内閣としてはなんら3ヶ月前と変わっていない。
国民は何故7月頃には離反し、また何故何も変わっていないのに、支持が増える?国民が馬鹿なのか?マスコミが嘘ついているのか?

このような意味のない数字を頼りに、結果として国会議員が選択や判断をするから、道を誤るのだ。

第一、以前野中広務が官房機密費でマスコミ操作を暴露したが、この問題は「政治と金」のえげつない問題そのものであるにも拘らず、皆口を閉じ、自浄作用が働かない。
こんなマスコミが日本を駄目にしている現実に、目をむけ皆が立ち上がらないと真の日本の自立と尊厳が醸し出されない。

2010年9月15日水曜日

アマチュア同好会集団 菅支持母体

今回の民主党代表選の結果を見て、次のことがはっきりと見て取れた。

これまで民主党は口では「明治維新」云々と言って来ているが、今回の行動は守旧の「維持」の行動だ。菅の問題点は皆分かっているにも拘らず消極的賛同という精神構造で、日本が進むべき道を選択したからだ。

明治維新では、閉塞した「徳川幕藩体制」を終焉させる「維新」と、従来の徳川体制温存での変化方式とがぶつかったわけだが、「維新」を断行する意思とエネルギーが憂国を救う方向に推し進めた。

一方、今の日本も様々な安全保障の危機にさらされ、また内政の停滞に直面しているが、、政府は何の手も打てていないわけで、おかれている状況はまったく同じだ。しかし、民主党が選んだのは、戦う「プロ」組織ではなく、従来の「アマチュア同好会」的お坊ちゃま組織だ。

第一、412人内閣などと馬鹿げたことをまたもや口走るリーダーを平気で選ぶセンスを疑う。全員野球は、監督次第で、優勝したり、ビリになる事実が分かっていないのか。これを見ても、民主党の菅の取り巻きは上辺だけの言葉を弄んでいるとしか思えない。

しかし小沢の打つ手は重厚だとつくづく思う。小沢支持の新人議員を一見使い走りのように代表選活動で使っているように思えるが、その実、顔が売れていない新人を人の集まる場に出させて、しっかりと、来るべき衆院選挙への布石を打っているのだ。
片や菅支持の新人は電話係で、目の前のことしか見えていない。

一事が万事、リーダにより一歩先二歩先の展開が大きく変わってくるという現実を民主党はこれからの政権運営で味わうだろう。

2010年9月11日土曜日

経済的破滅をもたらす経済音痴石原新幹事長

このブログのテーマは、歴史にも経済にもどこまでも無知な政治家が一端の政治家ぶって発言をしている危機的状況に喝を入れる事だ。

石原新自民党幹事長は、先に財政健全化路線の菅政権となら一緒にやっていけるというような趣旨の発言をした。この発言は二つの点で物議をかもすだろう。

まず、第一は自民党が財政健全化路線を掲げたことだ。
9月6日付けのNYタイムズに乗ったクルーグマン教授のコラムをよく読んでみるべきだ。歴史が証明した、1938年当時とった誤った経済政策を、米国は再び繰り返しているというのだ。教授はいま支配的である、財政赤字を削減すべき時だという議論が誤りであると、歴史の教訓に基づいて指摘している。当時の世論調査が、景気の落ち込みを防ぐための政府の財政支出に対してNOと63%が答えた。そして事業税の引き下げを選択したというのだ。しかし、その選択が誤りで、大幅な景気後退を引き起こした。そして戦争が始まった。経済的な教訓は経済が大きく落ち込んだ時には、財政的な厳格さは自滅を招くことになると結論付けている。そして現在の不況を克服するには知性の明晰さと多くの「政治的な意志」だとも指摘している。

菅も同じ間違いの方向に向かっている。

第二の物議は、菅と同調するシグナルを出して、民主党の代表選で小沢を退けようとする浅知恵だ。これは何を隠そう、小沢が総理になったら自民党復権の目が潰されるのが分かっていて怖いのだ。逆に言えば菅なら容易に政権の行き詰まりを引き起こすことができ、返り咲けるという取らぬ狸の皮算用が見え見えなのだ。菅も見くびられたものだ。そして民主党はこの菅を総理にしようとしている。何と愚かなことか。

ここは自民党と一線を画し、馬鹿の一つ覚えで「政治と金」しかいえぬ自民党を粉砕するくらいの気概を持たずして、政治家の意志など行使できるはずがない。

目を覚ませ、民主党。

事なかれ主義に汚染された菅陣営

このブログのテーマは憂国の危機に、「覇気」と「利他的な心」を持った人間が真に必要であることを、再認識していただくものである。前のブログにも取り上げた坂本竜馬には「光と影」があるだろうが、上記の意思を持って歴史を変えて行った人物である。

では、14日に迫った民主党代表選で優位が伝えられている菅陣営はこの憂国の危機に立ち向かうことが出来るのだろうか。代表選の終盤という切羽詰った状況の中に、実は先頭に立つ人間の、そして組織の本性が見えてくるのである。

菅陣営は、マスコミが作り上げた虚構「政治と金」で世論を見方につけたと標榜し、それを傘に「皆でわたれば怖くない的」心理作戦で票の上澄みを図っているようだ。

しかしよく考えてみよう、この精神は「日和見主義」そのものではないか。これまでブログで指摘してきたが、この日和見主義は菅直人の言葉そのものでもある。そしてその言葉に乗せられて菅支持を表明する、閣僚、議員、サポータは迎合主義以外の何物でもない。
こんな連中に憂国の危機に立ち向かう「覇気」と「利他心」があるといえるのか。これこそ腐った政治家そのものではないか。

政治家が「キャッチフレーズ」の表面的な言葉しか語れないなら、政治家をやめたほうがいい。官僚組織は、どのようなものであれ現在の仕組みの中で最大限の成果と効率を追求する組織だが、政治家は組織の仕組みや社会の構造を、時代の流れ、要求に合うように変えていくのが責務だ。腐った政治家には口先では変革と言っても何も出来ない。何故なら、深い歴史考証と哲学が無いからだ。

「政治と金」の話もよく考えてみれば、具体的な事実を何処まで知った上でその文言を口にしているのだろうか。「検察の作文」「マスコミの作文」以外に実は国民は具体的事実を知らないのではないか。でも、インタビューとかアンケートで、知ったかぶりで発言している。国会議員においてすら、その有様だ。昨日村木さんの無罪判決が出たが、まさに作り上げられた「作文」「虚構」で世の中が動き、それが否定されたわけだが、この間の無駄な時間を強いた構造に何の切込みもない。おかしくないか?

政治が怠慢だからこんなおかしなことが起きても事なかれ主義がまかり通る。

菅の参院選での「消費税発言」騒動、そして代表選での「雇用対策発言」、どれをとっても具体的な考察をせずに「キャッチフレーズ」で誤魔化そうした典型的な例だ。まさに怠慢政治家だ。雇用は企業業績が向上して初めて生まれるもので、持続的成長社会構造にするために何が必要か、具体策がない。でも首相の座に座り続けたいという厚顔さ。
こんな魂の政治家及び菅陣営に日本を任せられるか?

2010年9月8日水曜日

菅首相の失格宣言

このブログのテーマは憂国の危機に、菅直人が首相であること自体が歴史の汚点とならないよう、警鐘を鳴らすあなたの鐘を突くことです。

1. 資質の欠如: 論語も言う「徳の無い」政治家は政を為すことが出来ない。色々な傷をお持ち様だが、最近の言動では、「政治での数」を否定した発言に見て取れる。民主党が昨年政権を取れたのは「数」の恩恵によるわけで、都合の良い時には「数」を称え、一方で代表選では古い政治という印象と小沢批判を結びつけるために「数」を使う。ご都合主義者に難局に向かう資格なし。
2. 公人の欠如: 政治家は公人でなければならない。政治に口出しをする菅伸子は内助の功を越えた、裏の首相のようなものだ。これを諌めることが出来ない菅直人は公私のけじめがつけられない。
3. 具体的思考の欠如: これについてもあちらこちらで目に付くことであるが、最近の事例では、「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と絶叫しているが、なんら具体的な経済対策が打ち出せていない。どのように雇用を創出して、社会も企業も活性させるかが問われているのに、お題目だけ。それなら誰でも言えることだ。その証拠に絶叫を横目に、スズキがインドに完成車の新工場建設に逃げ出した。
4. 小泉劇場の出し殻を超えられない創造性の欠如: 政治には創造性が必須である。温故知新。しかし、菅直人の政治手法は「市民運動家」から脱皮できず、表層的イメージで世論操作をすることだけである。例えば薬害エイズ対策の論功で過去のイメージを訴えるだけで、では今首相として何をやるかは「語れない」。また「クリーン」という曖昧な定義の言葉を多用するが、政治に恥部はつき物だし、全て透明にして日本の安全保障交渉が出来るか。ここでも二枚舌、三枚舌を使う「不都合な事実」。
5. 安全保障を軍事的安全保障としか考えられない政治音痴: 安全保障の対象には、軍事、資源、食糧、技術、文化、金融などがある。感度高く内政外交を切り盛りすべき立場にあるが、そのような発言も無ければ施策も打ち出せていない。
6. 覚悟の欠如: 発言がころころ変わる。覚悟の無い思いつきで動いているからだ。お遍路さんも途中で「やった気」になり放棄するいい加減さ。

坂本竜馬が日本を守る、日本を変えるために命を賭けて戦っていたのに、奇兵隊気取りの菅直人は歴史にどのような汚点を残したいのだろう。

2010年9月4日土曜日

菅氏の偽装政治を暴く

このブログのテーマは菅直人の政治が偽装政治であることを皆さんとみることである。

今の日本が抱えている諸問題は、整理すると
① 硬直化した社会構造
② 老齢化の人口構成
③ 筋肉質でない教育
④ 内向きマインドの企業
⑤ 自立独立性が欠如した外交
などに起因しているだろう。

これらの問題の根底には、「官僚主導の政策立案と形骸化した政治家」があると、これまで指摘されてきた。
また、移ろいやすい世論を操作し、それを背に正当性を標榜する、ポピュリズムを利用した「劇場型政治」もこれらの構造問題の本質から目を逸らさせてきた。

昨年の衆議院選挙では、その修正を謳った民主党が勝利したわけだが、あれから1年が経ち、政策実現の凸凹という近視眼的な視点でなく、国のリストラという小手先でない太い変革がどういう状況にあるか、厳に民主党は見つめなおすべきである。

その目で現首相である菅氏の言動を先の参議院選挙活動、そして昨今の代表選挙での活動で追跡してみると、太い変革を推し進める政治家とは程遠い姿が浮き上がってくる。

1. 移ろいやすい民衆感覚・感情を世論と読み違えて発言がぶれる、信念の無い政治家。
具体的には、
(ア) 10%消費税の議論で、数字の根拠を自民党案に便乗することによりいつでも逃げられるようにする姑息さ
(イ) 風当たりが強くなると、弱者への配慮と称して還付を言い始め、しかも思いつき発言を繰り返す覚悟のなさ
(ウ) 代表戦に向けた新人議員への政治姿勢説明会で、3年後の衆参同時選挙などを口走る、戦略性のなさ
(エ) そして目指す変革の道筋を具体的に示せずに、ただ3年やりたいという無策さ

数え上げたらきりが無い。

2. 首相の座を競う代表選選挙活動で、首相の座、継続の『正統性』を、移ろいやすい民衆感覚に訴え、市民活動の延長の民主主義で埋め合わせをしようとする政治家としての勘違いと、小泉型ポピュリズムを否定した過去との自己矛盾に気づかない政治家。
つまり、一介の市民運動家から脱皮できていない器の小さい政治家。
例えば、
(ア) 代表戦がスタートする前、思いつきと小手先の政治活動として中小企業現場視察に行ったり、市民との対話をしたりと、マスコミ受けとパフォーマンスのみに頭を使い、腰の据わったゆるぎない政策実行・提案が出来ていない。
(イ) これらが見透かされて円高が止まらない。本質的な問題解決策を模索できない。

3. 「政治と金」の裏返しでクリーンさを訴えるあまり、政治手法を矮小化している政治家。
具体的には、
(ア) 3人寄れば文殊の知恵でもあるが、同時に政治が必要になるのが現実である。全て奇麗事で済むなら政治は不要である。「理」は必要であるが「利」も絡んでくる。政治はそもそも泥臭いものである。野党なら言うだけなので泥を被る必要は無いが、政府与党になっても、依然として泥にまみれた覚悟ある政治が出来ていない。クリーンな姿を訴えるあまり、逆に純粋培養的な器の小ささを露呈している。(イ) ひ弱さを外交でも見透かされて、対中国レアメタル交渉や対米経済交渉で行き詰まっているにも拘らず、強かな交渉を指示できていない。

以上は菅直人の本質をあぶりだす一例であるが、はっきり言って昨年国民が託した変革の担い手としては小さすぎる。所詮野党の党首止まりである。

このような菅直人を、頭のいい、しかも太い精神を持ち合わせている前原氏や蓮舫氏が推挙する理由が分からない。もし小沢怖しで動いているならまちがいで、むしろ小沢氏の中に飛び込んでいって、どろどろと変えていくべきだ。今の国難に対処できるのは小沢一郎だろう。彼にはどくどくしさがあるが、それは見かけのクリーンさだけで生きてきたわけではないことの証しでもある。
国民も、自らの生活でどろどろとした局面を実際に経験しているであろうし、「利」で動いている己の姿も知っているであろう。
今の日本に必要な政治はクリーンだけでいいのか、しっかりと考えるべきだ。

2010年7月14日水曜日

参院選挙結果から浮き彫りになる3つの大罪

今回の選挙結果での比例区での得票率を一人区と全国総計で、民主・自民で比較すると3人の罪人が見えてくる。
罪状は日本の世界における地盤沈下を加速させる罪。
罪人その一: 公明党支持母体
(根拠) 政党支持率では民主に負けているか、あるいは勝っていても1%以下の差であったものがその差以上で自民が議席を獲得した一人区は青森、秋田、山形、栃木、群馬、鳥取、愛媛、長崎、熊本に上る。この差分は公明党支持母体からの票であろう。
これが無ければ、民主:自民=53:42であった。政局が混迷し、経済の混乱、外交の混乱、国民生活の混乱の元凶を作り出したのは公明党支持母体だ。

罪人その二: 菅首相、鳩山元首相の思いつき発言/重量感の無い説得力
(根拠) 2007年の時との比較で、民主比例支持率39.5 -> 31.6%、自民比例支持率28.1 ->24.1%と勝った勝ったと言っている自民でも支持率を下げているのに対し、みんなの13.6%アップに流れている。
政権党としての胆力と周到さが無いため、国民が器の大きさに不安を抱き、不満票が誇大妄想のみんなに退避した形であるが、それが歴史上の禍根になって見えてくるであろう。

罪人その三: 世論を正確に代弁していないマスコミ
(根拠) 大敗した民主であるが党派別支持率では30%を越え、1位だ。あの沖縄でさえ比例区得票率は22.5%で自民の17.6%を上回っている。それにも拘らず、勝手に政局の混乱を紙面にテレビに作り出している。

数字で見る限り、自民党は復調したとは言いがたく、下がっているとさえ言える。事実、体質改善はまったく進んでいない。実力もないのに、勝った気になって野党としての政局論理だけで動くだろうからますます日本の地位低下を引き起こす。
この馬鹿げた状況を作り出したのは公明党支持母体だ。

また、「みんな」が民主からの受け皿に形の上では成っているが、単なるフィーリングでの乗り換えで犯したツケは、国民自らが背負うしかないであろう。何故なら政局混迷しか「みんな」は作り出せないからだ。その証拠に渡辺が自民党に在籍中何をしてきたのか?官僚を使い切ったのか?制度改革をしてきたのか?出来ない言い訳ばかりして飛び出しただけではないか。

民主はどっしりと腰を落ち着け、言い訳でない説明で国民と対話し、地方に足を運び、世論をバックに政策実行をしていく体制に早くなるべき。混迷を引き起こす野党への厳しい国民目線を勝ち取るのがまず大切。連立だとか何かを言うのはあくまで従来の国会対策に過ぎない。そんな時代は終わった。勝負手の連発がこの危機を脱する鍵だ。

2010年7月10日土曜日

マニフェスト議論は片〇落ち

今日のウェークアップぷらすで飯島某が民主党のマニフェストが実現出来ていていない云々の話をかなり自信を込めて主張していた。

しかし、よく考えてみるにだ、自民党時代は官僚に作らせたものを体裁を整えて出していたのだから、官僚がやろうとしていることなので達成率はもしかしたら高かったのかもしれない。
だけど社会はどうなった?世界との競争力はどうなった?

つまりだ、政策としてやる中味で、また何を持ってやったとするかの基準が問題なのだ。

民主党は崩れた社会を立て直す方針をマニフェストに掲げたのだろうが、掲げた目標は高いのだ。それに向かって行くのが政治ではないか?仮に今道半ばでも。

こんな当たり前の議論のルールが守られずに、不明確な土俵の議論が、一方的に流されるって、読売系メディアは公器なのか?それともオーナーの私物なのか?読売新聞の論説委員もいたのだからなおさらだ。

これは片〇落ちの議論ではないですか?社会の抱える問題への政策議論を単なる政局のワイドショーにしているマスコミの責任は非常に大きい。

野中広務氏の告白にある、機密費で世論操作としてマスコミに巨額の金を流したということであるが、マスコミはこれこそ「政治と金」の最も重たい問題であるのを認識できないのか。臭いものに蓋をしてワイドショーを展開する無責任。

国民は化かされてはいけない。

2010年7月9日金曜日

参院選挙を目前にして

あと2日後に参院選が迫っている。この時間の流れの中で、立ち止まり静かに過去を振り返り、そして今の動きを見、未来に思いをはせる。

そして見えてくるのは、国民のドアホさと自民党の無思考さだ。これは1年前の衆院総選挙の時となんら変わっていない。

今の日本は土台の腐った家と同じだ。60年、とくにここ20年の失われた日本の20年を演出した自民党族議員と官僚が閉ざしてきた利権の巣窟のもと風通しが悪く、腐ったのだ。

どうします、シロアリに土台が食べられてボロボロになっていても住み続けますか?大改造ビフォー・アフターでしょ。この日本の立て直しは一旦壊して作り直す大変な作業。それを1年前に民主党に託したのではないですか?

ここで国民がブレたら、官僚復権、官僚と一部結託したマスコミの思う壺。

今の自民党の動きを見てみなさい。また公明党と組んで、票頼みをしている。これが原因で自民党が本質的に弱くなったのに、また麻薬に手を伸ばす。こんな自己再生能力のない政党に国民は騙されるのですか?覚醒剤禍から抜けられない芸能人のワイドショーを見て皆さんどう感じています?アホかといいません?

自民党は族議員構造そのものを変える手をこの1年間打ってきましたか?打っていないでしょう。ただ小泉2世の劇場の見世物興行をしているだけではないですか?

だから国民は馬鹿だといっているんです。無責任なワイドショーを演出するマスコミに踊らされているのに気が付かないのだから。

もう一度言います。ここで国民がブレたら、官僚復権、官僚と一部結託したマスコミの思う壺。

皆さんは中曽根元首相の「保守の遺言」を是非読んで欲しい。歴史と知恵が詰まっています。いまさらこんなことを書いても、もう時間が無い。無益とも言えるが、中曽根さんが「遺言」を書いているのに、まだ若い我々が手を拱いていたら申し訳ない、一心で書いています。何人かが読んでくれるのを期待して。

2010年1月18日月曜日

平和呆けしたマスコミ!?それとも闇の宣伝資金?

小沢幹事長を取り巻く形でニュースの渦が回っている。
昨今は政治資金規正法の話からボルテージアップして、ゼネコン裏金による土地購入疑惑の話に拡大されて喧伝されている。
この社会現象を見ながら、つくづく国民は騙されているなと強く感じる。

孔子先生の論語に「先生がいわれた、古いことに習熟してさらに新しいこともわきまえてゆくなら、人の師となれる」という一文がある。温故知新として有名である。
国民もマスコミも孔子先生のこのお言葉を今一度かみ締めてみる必要があるのではないだろうか。

まず現在マスコミ各社がこぞって報道している内容は、何処の報道機関を取り出してもまったく同じだ。これはニュースソースが一つということを意味する。ということはニュースソースの信憑性を検証する手段もなく、また検証しようともせず、思考停止状態で、正しいと脊髄反射して、垂れ流しているということになる。そのニュースソースこそ検察であろう。

そして、知的怠惰に陥った報道機関ほど罪が深く、そして質が悪いものはない。何故ならマスコミニュケーションという公器の持つ暴力的側面を振り回しているからだ。

ここにいい例えがある。帯刀するものに侍の心得として、武士道というものがある。これは刀の持つ暴力的な面を御する人間の心を磨くものである。しかしどうだろう、視聴率という資本主義の物差しだけで編集が決まっていく昨今の報道機関に、公器を御する心構えというものがあるのだろうか。

リーマンショックで明るみにされた、一部の金満家が公的存在の金融機関を私利私欲のために使い、巨万の富を手にして逃げた社会現象に、怒りを集中させたように、公器でありながら偏向した資本主義のもとに操作される報道機関に対して、同じような怒りを何故ぶつけないのだろうか。

私は小沢一郎は嫌いだ。しかし、一連の報道から、検察の作為が浮かび上がってくる。これは恐ろしいことだ。検察がリークして世論操作している内容を見るに付け、司法という善人の仮面を被り、裏で悪をやる姿が浮かび上がってくる。慈善家を装うマフィアのように。
何故そのように感じるかというと、1/15の段階では、土地購入資金の4億円そのものが、土地代金支払い時期と銀行から融資を受けた時点の時間差の不合理性を根拠に、全てが不正であるかのような報道を仕向けた。
しかし、小沢一郎が、金の出所の金融機関情報を全て検察に出したと言明したらやおら、3億円強の金が小沢の個人資金から出ている事を認める情報を流している。
明らかに報道内容の信憑性が疑われる事実が露見し始めている。

このように考えてくると、検察の作為は何か?という大きな疑問が湧く。そして、推理作家風に言うなら、まさに官僚の逆襲が検察の衣纏って顔を出してきたということだろう。法という誰もが信じ込んでしまうトリックを巧みに使い、そして、黒い衣服を纏ったあたかも正義の執行人のように肩で風を切って家宅捜査する映像を一方的に流して、通常国会を紛糾させて政権運営を頓挫させて、再び官僚の春を取り戻そうと企んでいるのだろう。

国民は「竜馬」に続け。