2010年10月5日火曜日

司法のワイドショー化を防げ

小沢の強制起訴が検察審査会の議決で決まった、と言う報道が議決後3週間も経ってから昨日あった。これだけを聞くと、フーンだけですんでしまうが、検察審査会の議決の根拠の妥当性、議決の開示のタイミングの妥当性、顔を出さない検察審査会の責任の取り方など、一つ一つ掘り下げて見ていくとそこには、正義を纏った虚構が見え隠れする。

これこそ、「我々取材班は」という語りで展開する、正義を纏ったワイドショー報道となんら変わりがない。司法ですら、検察審査会とその報道のあり方によって、安物のショーに成り下がってしまった。
法律と言う客観化を目指したルールに則り、証拠と論理の上に組上げられるべき司法が、第三者の作成した文書(厳密に言うと検察調書)を読み、供述内容を聞くだけで、自らの足を使った直接的な情報収集もせずに判断されるという、砂上の楼閣的推定で覆されるという構造は、司法の危機である。

これまでの色々な冤罪で表に出たが、供述調書の信憑性と「検察の作文」との関係が今ほど問題となっている時期はないのに、何の反省もなく、まったく同じような有罪的報道と世論の反応が出るのは何故なのか。

よく考えてみて欲しい。大阪地検での村木さん不起訴の過程で明らかになった検察調書の虚構や証拠捏造の問題が有るにも拘らず、当初報道機関は村木さんを有罪の様に扱い、そして地検のボロが出ると今度は地検を槍玉に挙げるという反応は余りにも馬鹿げていないか。
この問題を目の前で見ていながら、今回の小沢の強制起訴報道で、村木事件の反省も無く、報道機関もまた与党も、野党も、情緒的状況証拠での推定でしかない検察審査会議決を金科玉条の如く振り翳す論理は、余りにも手前勝手な話ではないか。

そしてこれが国民の声であると言ってしまうことイコール、司法の冒瀆になっているのが気が付かないのであろうか。多勢に無勢の村八分という不条理なことを許さないために、ルールを決めそれに則り判断をしなくてはいけないのではないか。
今回検察審査会で議決をした人間は、推定無罪の小沢が晴れて無罪となったとき、今度は裁判所のあり方を起訴するのだろうか。単なる趣味集団以外の何物でもないのかもしれない。やはり責任を公にしない、責任を伴わない、検察審査会集団の有り方を厳しく問い質すべきだ。