2009年10月24日土曜日

日本郵政次期社長に期待する

日本郵政次期社長に斎藤氏が内定した。元大蔵事務次官経験者を日本郵政会社のトップに招聘する人事を巡り、報道機関や野党からは官僚の天下りでは無いかとか、旧郵便局業態へ先祖帰りにならないかという指摘や人事への非難がある。確かに官僚が民間企業や法人などに職を得るという字面をもって「天下り」と定義すれば、その通りであろう。しかし「天下り」の問題を考える際、何故「天下り」の規制が必要なのかという議論の本質を我々は忘れてはならない。報道機関も野党もこの重要なポイントを見失った論を展開しているから、深みの無い議論に終わっている。いやもしかしたら自民党は今もって、何故「天下り」が問題なのか分かっていないのではないか。

そもそも天下りの問題は何処にあるのか。一言で言えば、官僚が天下りと渡りを繰り返すことにより「国民の税金」から多額の給与と退職金を累積して「不透明」に懐にできる構造にある。天下り先のOB在籍の独立行政法人と公益法人には、特別会計および一般会計から巨額の国の補助金が予算化されている。つまり「理」と「義」に反した税金の流れと「天下り」が結びついた時に始めて問題となるのだ。
ところでこの税金の不透明な流れは、50年以上に亘る自民党一党独占の政治体制のもとで育まれてきた構造である。そこには自民党の族議員と官僚と業界とで構成する癒着したトライアングルがある。癒着構造のもと「国民の税金」が自民党の政治資金に、あるいは官僚の「天下りと渡り」で累積する退職金に、そして自民党税調下での業界への租税軽減措置に化けて消えていく。この闇の成金マシンに組み込まれた天下りこそが問題なのだ。
裏を返せば闇の成金マシンシステムが無ければ、官僚が法人団体や民間企業に転出しても「天下り」が「悪」という構図にはならないはずだ。民主党の目指す「政治・行政改革」の一つは、闇の成金マシンシステムを解体することで、加えて税金が「不透明」に蒸発していないかを監視をすることだ。民主党政権下では、「天下り」の議論の土俵が自民党時代のそれとは質的に異なってくるのだ。官僚が企業のトップに就いても自民党時代に成り立った「天下り」イコール「悪」は成り立たない。この違いも分からずに、報道機関や野党は、「天下り」イコール「悪」という短絡的な議論をしている。今朝の“ウェークアップぷらす”TVでも、読売新聞 橋本氏、自民党 石破氏、それから竹中平蔵の各氏が民主党の野党時代の対「天下り」方針と今回の日本郵政会社での人事の違いを、日銀総裁同意の一件を引き合いに出して、違いを説明しろと言っていたが、既にしてまったく土俵が異なっているという認識がない。報道機関が薄っぺらの議論を演出するから、日本の政治が非常に薄っぺらなものに落とし込まれている。いい加減、このような低レベルの議論、報道に終止符を打たなくてはならない。

むしろ視点は、次期社長に内定の斎藤氏の実力とコスト・パフォーマンスを見ていくべきだ。そもそも当時の郵政民営化の本質は竹中平蔵がアメリカの金融業界の要求に応じる形で当時340兆円あった郵貯マネーを米国に開放したことであった。マネー資本主義とも称される新自由主義の風を強くしたわけだ。今回の郵政民営化見直しの目的の一つは、まず郵貯マネーの使い方の見直しにある。この原点を忘れてはならない。また、郵便局のネットワークは既に地方・都市に広く展開されている。これを有効に活用して、郵貯マネーの使い方と合わせて地域再生の布石にしていくべきだと思う。日本郵政会社に課せられる新しい使命は広く深い多機能的なものになるであろう。我々はむしろ今後の日本郵政会社の新基軸と展開を注視すべきだ。
米国では名だたるCEOが企業再生請負人のように次から次へと渡る。そこには負のイメージはない。例えば、ルイス・ガートナー ルイス・ガースナー IBM元会長は、RJRナビスコ最高経営責任者(CEO)から崩壊の淵にあったIBMを再建するため、1993年会長兼最高経営責任者(CEO)となった。名門企業IBMで大規模なリストラを断行し、終身雇用制など企業文化そのものも根本的に変革し世界のIBMを変えた。
IBMという大企業を見事に操ったガースナー氏は、著書『巨象も踊る』の中で、こう語っている。
「大きいことはいいことだ。象が蟻より強いかどうかは、問題ではない。その象がうまく踊れるかどうかの問題である。見事なステップを踏んで踊れるのであれば、蟻はダンス・フロアから逃げ出すしかない。  本業に専念しろ。ダンスはその日のデートの相手と踊れ。」
(ここでいう蟻とはコンピュータ業界でのダウンサイジングという当時起きていたパラダイムシフトを指している。)

日本郵政会社においても国民は今回の人事を、巨大な日本郵政会社が民間企業として見事なステップを踏み、地域活性化と絡んで日本再生の礎になれるか、我々の問題として身近に考えるべきだ。
報道機関や政治家の議論が薄っぺらなのが気になる。何が問題か、問題が問題として頭をもたげる境界条件は何だ、という複眼的な視点で議論を醸し出す必要がある。自民党時代が長かったから仕方が無い面もあるが、問題の問題たる所以を掘り起こす態度が必要だ。「これまでそうだったから」という思い込みや思考停止状態から抜け出よう。幸いにも政治のプロセスの見える化(見えるようにすることの略語)、情報公開を掲げる民主党の大きな変革で、深みある議論が出来る土壌が生まれつつある。

2009年10月20日火曜日

温室ガス25%削減ー日本再生のプロジェクトー

鳩山首相が先に世界に向けて発信した2020年までの温室効果ガス排出削減目標25%(1990年比)を巡りさまざまな議論が起こっている。このことは非常に喜ばしいことである。開かれた議論こそが活性化した民主主義を育てるからだ。
その観点で自民党時代を振り返ると、どうだっただろうか。残念ながら自民党時代には首相であった安倍、福田、麻生の各氏がサミットに出席しても、前向きなチャレンジングな志向を世界に向けて発信することは無かった。どうでもいいとはいわないまでも、代わり映えのしないメッセージしか出せなかった。
それは何故か。自民党時代には頭を使う政治がなされてこなかったからだ。世界では、各国が経済的にも、軍事的にも、政治的にも凌ぎを削りあっているのに、一方日本では、ひたすらに島国根性で、内向きの村の地割と村の利害関係の調整に勢力を注いできた。この自民党政権時代の「ぬるま湯」に浸かり、何も考えずにこれまでの慣習を続けてきた怠惰があらゆる領域で日本を停滞させてきた。国家行政においても地方行政においても緊張感なきことこの上なかった。
今回の宣言は、日本がやっと永い眠りから覚めたことを世界に向けて、そして国内に向けて示したものだ。これが日本再生の一歩に繋がることを期待したい。

ただ、日本の現状を打破しようとする提案に対して、ネガティブな言論も目に付く。例えば先日の読売新聞の「地球を読む」コラムでのJR東海会長葛西氏の寄稿などが良い一例だ。
他のネガティブな言論も大体同じ基調を取っていると思う。大きく見ると次の3点だろう。
(1) 25%と言う数字が具体的な裏づけを積み上げた数字になっていない。また余裕を見た目標設定になっていない。事前国内合意が取れていない数字である。
    (勿論、反論する方も具体的な数字を積み上げて反論しているのではない、と言う論理的欠陥をさらけ出しているのであるが)

(2) 国民への経済的負担及び企業への財政的負担が大きく、景気の減速に繋がる。また排出規制基準のより低い国への企業移転や製造拠点シフトが懸念される。結果として国内雇用の縮小、国民生活の逼迫を危惧する。

(3) 1990年基準の妥当性が無い。また日本の削減目標数字が突出している。

これらの指摘を注意深く見ると共通の特徴があることに気が付く。それは、やりたくないために、机上で出来ない理由を上げ連ねると言うものだ。
どのようなプロジェクトでも高い理想とか強い願望が最初にあり、それが方向付け・目標設定を行う。もし目標がトレンドに乗っている、つまり従来の積み上げで達成できるのであれば、ブレークスルーは無くてすむ。でも得られる結果は陳腐なものになりがちである。
一方、目標が従来技術の延長上に位置しないものだとパラダイムシフトが必要になる。25%削減目標はまさにパラダイムシフト、コペルニクス的転回が必要なターゲットなのだ。当然得られる結果はエポックメーキングなものになる。
過去において難しい目標を立て、それでいて成功したプロジェクトはいくつもある。皆様々な試行・実験を通して、不屈の精神と決断力でひたすら突き進んで成功している。第30代アメリカ大統領クーリッジも「この世に不屈の精神に代わるものは何一つ無い」と言っている。
例えば今から50年近く前にケネディ大統領は人類を月に送り届け無事に地球に帰還させる計画を発表した。アポロ計画である。今と比べて、コンピュータ技術も通信技術も比較にならないほどのレベルであったはずだ。しかし計画開始から10年をまたずに計画を成し遂げた。日本では東京オリンピックから5年後の時代だった。勿論アポロ計画は、発表時点での技術のトレンドで見通せた計画ではなかったはずだし、国内合意形成をしてから発表した計画でもなかったはずだ。
更に、はるか昔の紀元前2570年ごろのクフ王のピラミッドも見てみよう。当時の技術と知恵を集めて20年ほどで完成させたと言われている。現在、最新の技術・工法をもってしても5年掛かるとの見積もりがあるのに、しかし先人達は20年で達成したのである。
つまりやる気になって不屈の精神で進んでいけば、革新的な壮大な計画でも達成できるのである。

昨今の日本の状況はと言えば、先のJR東海の会長の話にも出ているように、やれない理由をあげてやらない人間がはびこっている。これは会社でいえばまさに大企業病で、会社組織の大敵である。こんなことはJR東海の会長もご存知のはずだと思うのだが、出来ない理由作りに自らいそしむとは日本の経営者も落ちぶれたものだ。

温室効果ガス25%削減には、エネルギー浪費の削減、エネルギー効率の向上、化石エネルギーに代わる代替エネルギーの開発など、様々な技術及び政策を有機的に結び付ける施策が必要だ。この施策は地域の街づくりと関連するし、町と町を繋ぐ輸送ネットワーク網・情報ネットワーク網とも関連するし、電力パワーネットワーク網も関連する。勿論もの作り産業の構造改革にも繋がるものだ。つまり21世紀の日本の骨格を設計し直す壮大な再生基本設計になるものだと思う。
言い換えれば、温室効果ガス25%削減のプロジェクトは、国内で抱えている様々な問題、例えば硬直化した社会構造の問題、過密・過疎の問題、少子高齢化の問題、高度成長期の成長モデルに変わる成長モデルなどをトータルに取り込んだ解決策にすべきだと思う。
勿論、歴史を見れば、石炭エネルギー革命と蒸気機関の発明を成しえたイギリスがまず蒸気軍艦により世界制覇を成し遂げた。そして第二次世界大戦の頃からは石炭エネルギーに代わる石油エネルギーを用いたエンジンが主流になり、特に戦後にはジェットエンジンの開発を爆発的に推進した米国が航空機技術により世界を制覇することになった。
日本がこれから進めようとしているエネルギー革命は次世代の国際社会の覇者を決めるものになる。米国も中国も強かに開発を加速しているのが実態である。確かに石油の資源枯渇までにはあと数十年はかかると言われている。また長い年月をかけて現在までに構成されてきたエネルギー構成であるが故に、急激にしかも短期的には変われないだろう。しかし確実に石油エネルギーからのシフトは進んでいる。
政策面でもアメリカで排ガス制限の新法案が最近下院を通過した。ガス排出制限の方策を立てない国には貿易(関税)障壁を設けるというものだ。企業が排出基準のより低い国に移転するという動きに歯止めをかける措置である。よくネガティブキャンペーンに使われる、高い排ガス規制基準が国内産業の競争力を削ぐとか、国内産業が空洞化するという短絡的な議論は成り立たなくなるということだ。
また、25%という数字にしても、EUの1990年比での2020年までの削減目標は20%であり、既にEUは2005年までに4%を削減している。方や日本は2005年で7%増大している。これまでの自公政権が、温室効果ガスの削減に対して不屈の精神を持たず、戦略もなく、対応してきたためである。
温室効果ガス25%削減の道は日本の構造改革の道であり、日本再生への茨の道でもある。今回の宣言が、その戦いの宣戦布告だという気概をもって、政府は早く、25%達成に対する負の力を示しつつ、それを乗り越えて目指す21世紀の日本の骨格を提示し、国民と共に知恵と汗をかき、実験を積み重ねながら潔く進んでいって欲しい。

2009年10月8日木曜日

再生の道を誤る?自民党新体制

自民党は谷垣新総裁の下、新たなスタートを切った。先の衆議院選挙では優秀な中堅・若手が落選し、党の不良資産とも言える守旧派が比例区で復活当選している。このため、党再生のプロセスがどのように進むか非常に関心がある。

どの自民党議員も解党的出直しとか、保守層支持を取り戻す政策を訴えるとか、地方組織の建て直しなどを謳っている。個別に見れば、どれも党再生の道としてはその通りだと思う。しかし、自民党は大きな過ちを既に犯している。それは、先の総裁選で河野氏が訴えた解党的出直し策を葬り去ったことである。更にその河野氏を抑える目的で森氏が暗躍し、西村氏の立候補を働きかけたことである。不透明な派閥力学、守旧の体質・構造が実際にはまったく変えられていないのである。

自民党は抱えている問題の本質に切り込んでいけていない。一部の報道機関が先の衆議院選挙敗北の原因に、「自民党総裁や閣僚の自責点」を挙げているが、これは再生の方向を見誤らせている。自民党が抱えている問題は大きな氷山のようなもので、根っ子は、族議員と称する利権を縦にした集団と裏で党を操る黒幕に象徴される、動脈硬化した古い党の体質である。
そして氷山の一角として表に見えてきていたものの一つが、政官業の鉄のトライアングルといわれる利権構造の癒着である。国民の税金で私腹を肥やす政治をし、国民を蔑ろにしてきた自民党にNOを突きつけたのが先の衆院選挙結果なのだ。

自民党がこれから進むべき道は1955年結党以後年々硬直化していった組織のペレストロイカである。旧ソ連でも戦後40年以上続いてきた共産党組織の解体に多くの血と汗を流したが、自民党も同じように古い組織の新陳代謝を図るには大掛かりな手術が必要なはずである。
しかし、残念なことだが、これまでの自民党の動きは、
1. 衆院選挙での自民惨敗判明後すぐにスキャンダル追及の話しを口にした大島氏と町村氏が新体制に大きく影響を及ぼす構造になっている。
2. 谷垣氏は政党政治をやろうとして、政策通の加藤鉱一氏を予算委筆頭理事に内定したが、その目論見がもろくも町村氏の横槍で崩れてしまった。そしてその理事に町村氏が就いた。
3. 総裁選では過激なまでに、黒幕一掃を訴えた河野氏であったが、結局その声は取り上げられず、自民党が変わるという姿勢が潰された。
4. 次の参議院補選での公明党票取り込みのお願いをまたしてもやった。結果的には公明党の同調が得られなかったようだが、一から自民党を立て直す気骨が見られない。自民党の弱体化をもたらした3バンの麻薬から抜け出そうとする努力すらしていない。
国民不在の対応を相変わらずしている。

実は1993年の細川政権誕生で下野した際にも、党組織を再生させる良い機会があった。1980年代後半から細川政権誕生までの当時、自民党と社会党は収賄事件を起こし、政治不信が大きな社会的問題になった。国民の審判により、自民党と社会党は大きく議席を減らしたのであるが、自民党がやったことといえば、ご存知のように党組織の改革ではなく、細川氏の佐川急便グループからの借入金処理問題を政権発足の2ヶ月後の10月から徹底的に追及し、そして予算審議拒否を行なうことだけだった。勿論この問題は、細川政権崩壊後はうやむやになってしまう程度のものに過ぎなかったのだが、姑息な手練手管で政権の座にただ戻ろうとしたのだ。

また自民党は社会党とともに政治改革関連法案を否決さえした。世論を無視する暴挙を行ったのである。そして政局を混乱に落としいれ、政党政治の成長の芽を摘んでしまった。結果として無党派層が大きくなり日本の政治が停滞するという大きな痛手を負ったのだった。そのツケが今となっては大きく自民党自身に重く圧し掛かっているわけだが、勿論国民の生活も政治から置き去りになり、また日本経済の国際社会における地位の低下も甚だしく顕著になった。

こんな自民党を政権の座に復帰させたことは国民の大きな反省材料であるが、当時それに代わりうる受け皿が無かったのも事実であった。
しかし今回は違う。事前に十分に政権交代を準備した民主党がいる。そして、硬直化した危機的状況にある日本を救うために、「政権交代」という大きく舵を切る選択を国民がしたのである。是非ともこの大きなうねりを継続し日本を改革し、日本を甦らせないと本当に沈没してしまう。

しかし、今の自民党にはその危機感が見られない。今回の新体制を見る限りにおいては、またしても1994年に政権の座に戻ったのと同じ流儀を取ろうとしているかのようだ。
例えば、政治と金の関係で、収賄事件がおきているわけではないのに、鳩山首相の政治献金の処理問題を最重点に置こうとしている。政治を混乱させて予算成立を阻み民主党の足を引っ張ろうとしているかのようだ。
半年前まで景気対策が最重要だと言っていたのは何処のどいつだ。社会保障基盤の立て直しにしても、税金の無駄使いにしても大きくメスを入れなければならない状況が目の前にあるのに、やはり自民党にはこれらが見えていないようだ。

こんな自民党には参議院補欠選挙も含めて国民は「大喝」を食らわせるべきだ。国民は自民党が国民生活に密着した政策論議をしっかりと行っているか、また国民生活をよりよい方向に持って行こうとしているか監視をすべきだ。スキャンダル追求だけの混乱を意図した対応には断固として、国民は立ち向かうべきだ。それが結果的に自民党を真に立ち直らせることに繋がるのだ。そして成熟した政党政治の実現に向かって一歩前進するのだ。

「政権交代」を選んだ我々国民は覚悟を持って「政権交代」を育てる責任があると思う。

2009年9月28日月曜日

古い利権構造温存狙う相変わらずの自民党―八ッ場ダム推進―

八ッ場ダム建設中止に関して先日小論を展開させて頂いたが、その中で住民の反対行動を裏で操る黒幕がいて、いずれ尻尾を出すだろうと言わせて頂いた。それが早くも姿を現した。自民党はつい先日、自民党県議で作る「八ッ場ダム推進議員連盟」を立ち上げた。この動きの延長上に黒幕の本丸がいる。

まず現状を今一度整理する。建設推進派の顔として表に見えている、大澤正明知事と高山欣也長野原町長がいる。彼らの素性をざっと整理する。大澤知事は平成15年には自民党群馬県連幹事長をやっていた。また高山町長は元八ッ場ダム代替地分譲基準交渉委事務局長をやっていた。「県連幹事長」とか「分譲基準の事務局長」などといういかにも利権にどっぷりとつかりそうな役職を手掛けて来た。
一般的に言ってダム建設に纏わる利権構造の話しに事欠かないのは、歴史の事実であるが、この八ッ場ダム建設でもきな臭い二人の顔が見えているのだ。彼らがダム建設推進とわめけばわめくほど胡散臭さが深まると言う構造に彼らは気が付いていないのか。
あたかも被害者住民の声をバックに正義を持って動いていると言うシナリオを描いているのであろうが、過去のお金の流れ、これまで掛かった経費の再査定、なおかつこれから掛かるであろうと見積もられている金額の妥当性検証を進めていく中で本当の姿が浮かび上がってくると言うものだ。
それらを情報公開することを国には求めたい。これらの事実を公開することにより、本当の政治構造改革が達成されると思う。

勿論、翻弄され続けてきた地元住民の心のケア、生活再建と長期的視点での過疎解消と活性化の誘導を進めていくことは、今後の地域分権政策を具体的に展開していく上でも非常に重要な第一歩である。この認識を持って、国は事に当たってもらいたい。
この問題は国交省だけの問題ではなく、総務省、行政改革会議、財務省にまたがる横断的な対応が必要な問題である。旧来の縦割り官僚政治構造では対応できなかった問題だけに、腰を据えてやらなければならないものである。

ダムの問題は戦後64年に亘って続いた自民党政権下で蔓延した、硬直化した利権構造の問題の典型的なものである。歴史的には、そのような構造的問題を放置したら日本が沈没してしまうと言う危機的状況にまできてしまったのだが、どうも今の自民党にはその認識が無いようだ。
その証拠に、八ッ場ダム推進議連を立ち上げ、古い利権構造の甘味を享受しようとしている。この動きは単に民主党政策の実行を阻み、かく乱させ、日本を混乱に陥れてもいいから旧来の自民党政権を復古させ、再び古い利権構造の甘味を享受しようともくろむ以外の何物でもない。黒幕はこれからも強い抵抗をするだろう。

現在進めている次の自民党の総裁を選ぶ選挙でも、自民党の不良債権的分子を整理しないで旧来の構造を温存する人間が選ばれそうな動きである。彼らは細川政権の際に演じた誤りをまた繰り返そうとしている。前回もそうであったが、歴史に合わなくなった自民党の構造自体を改革することなく返り咲こうとする、柳の下の二匹目のドジョウを狙っているだけなのだ。成熟した政党政治の実現のためにも、お家事情で党を運営するとか、政策を決めるなどといった体質から脱却し再起をしてもらいたい。

2009年9月22日火曜日

八ッ場ダムに纏わる事実を何故報道しないのか

八ッ場ダムの建設中止決定に対して地元住民の白紙撤回要求や関連する1都5県関係者の反対行動などが昨今マスコミを賑わしている。
どのようなことでも賛成派と反対派はいるものだ。身近なところでは夫婦の議論もあれば、地球規模での国対国の交渉にも賛成と反対が付き物である。
だから前原大臣には凛として事に対処して頂きたい。

大切なことは、地元住民と称する一団の昨今の行動の裏に何があるかと言う事実の解明と、そもそも八ッ場ダム建設が歩んできた歴史・問題点が何で、そして何処の着地点が今後の地域分権・地域活性化を実現する上で最適解かを明らかにしていくことだと思う。

しかし、現状はと言うと、マスコミは住民の言動の感情的な面しか取り上げていない。ミクロな視点でのYESだNOだという低レベルの議論しか見えてこない。また、今日公明党の山口新代表が現地を訪れたが、まるでお涙頂戴的なレベルの切り込みしか出来ないさもしさを演じている。
公明党の現地入り工作や住民の反対行動の裏で糸を引いている黒幕が居るのは確かだろう。いずれ尻尾を出すであろうが、守旧派であることは間違いない。

残念なことに既に日本では、50年を費やしてもまだ十分な解決に至っていない八ッ場ダム建設の大きな問題を議論する民主主義の土壌すらも枯れてきているようだ。マスコミは「国民の知る権利」を代行するなら、問題を多面的に捉えて報道すべきだ。普通に考えて、50年間かけても建設できない、強硬な反対を続けてきた過去が何故、一転建設促進に変わるのか疑問に思う。マスコミはこの点を国民に分かるように説明すべきだ。地元住民も説明すべきだ。

民主党は、八ッ場ダム建設中止に至った事の経緯を丁寧に説明し、八ッ場ダム建設がおかれている状況を説明すべきだ。

このような当たり前のことが、これまでの自公政権では出来なかったのが最大の問題点だったのだから、これからは一歩一歩積み上げていく事が必要である。

異論反論!民主党官僚会見禁止への読売新聞社説へ

9月18日付け読売新聞社説「官僚会見禁止」に対し、率直に異論反論を申し上げる。
読売新聞だけではないかも知れないが、読売新聞は報道機関の本来の使命を全うできていないのに、更に言うなら己の立ち位置をわきまえずに「言葉の遊び、更に言うなら表層的視点」で官僚会見禁止への論を張っている。
社説の論理構造は、官僚幹部の公式記者会見は、「国民の知る権利」を報道機関が代行しているのであり、その報道機関の取材機会制限は「知る権利」を奪うと言うものである。更に報道機関が国民に代わって行政機関を監視する役割を担っているとまで言っている。

確かにこの部分だけの論理構造を見れば主張としては筋が通っている。だからこそ質が悪い議論の展開なのだ。
しかし、物はマクロに見ないとミクロな重箱を突っつく議論から抜け出せないのも事の本質だ。

客観的に最近の報道機関の行状を見渡し、上記で論を張る、「国民の知る権利」の代行あるいは行政機関の監視代行が本当に行われているだろうかと問いたい。
答えは否である。

まず、報道機関は国民の視聴率を獲得するという構造で儲けているため、国民を如何に扇動するかと言う表層的キャッチフレーズだけに始終している。このため腰の据わった継続的事実の追求とか現象の裏に潜む本当の姿の解明と言った事実の掘り下げなどがまったくと言っていいほど出来ていない。
この良い事例が小泉「劇場型政治」の報道機関の取り扱い方であったことは皆さんの記憶にも新しいことと思う。そして、劇場型政治の歪が現実にあったのに、陰の部分を地味だが追及した報道機関がどれほどあったのだ。どの報道機関も金太郎飴のように切り口が同じだったでは無いか。

つまり一発の打ち上げ花火のように国民の衆目を集めることだけはやるが、その後がどうなっているかと言うフォローも無ければ追求も無い。
これで本当に「国民の知る権利」を代行していると言えるだろうか。

また、最近の事例では新型インフルエンザのワクチンの準備についてだが、今年5月ごろは異常なまでに過敏に報道していたが、6月以降、WHOはパンデミックに危険度を上げたのに、日本国内のワクチン供給体制は休業になり、8月に国内流行が増え始めて慌ててさてどうすると言った行政がなされてきたが、報道機関は一体何をしたと言うのだ。これでよくもまあ行政機関を監視する任があると言えるものだ。

上記では奇麗事を言っているが、やっていることはまったく別なのだ。

とくに読売新聞には自らの立ち位置を猛省してもらいたい一件がある。さる2月ローマでのG7財務大臣・中央銀行総裁会議で中川大臣が朦朧会見をした際、その前の昼に読売新聞女性記者も一緒に、大臣が酩酊するまでワインを飲んだという事実があるのに、朦朧会見の一件が明るみに成っても、ひたすら息を殺して嵐が過ぎるのを待つという行状をしていなかっただろうか。しかも会議から抜け出してワインを飲んでいたと言う話だったと記憶している。
読売新聞は総括をしたのだろうか。新聞紙面一面を使って国民に謝罪および説明責任をしたのであろうか。私の記憶は朦朧としていてよく覚えていない。

読売新聞はこのような体質でよくも正義感ぶって「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」をすると言えるものだ。
ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。

今回の「官僚会見禁止」に関しては色々な意見があると思う。ただはっきり言えることは従来の「官僚幹部の公式記者会見」の持つ意味は、読売新聞が指摘する「行政機関の監視」「国民の知る権利の代行」の機能はまったくと言って良いほど果たしていないと言う事実である。それより官僚の大先輩である藤井財務大臣が昔と今とを対比させた上で、「官僚会見禁止」を訴えている論の方がどれほどか信頼が置けるというものだ。

もう一度報道機関に言いたい。よくテレビで「我々取材班は」と正義ぶって社会の悪と戦うかのような演出をしているが、これはマスコミという公器を使った暴力以外の何物でもない。もっと地に足をつけた報道機関の本来の使命を取り戻さないと、郵政民営化議論の際にマスコミに何処からとは言わないが一部の利益団体から多額の金が流れ、国民世論を操り、本当の意味での「国民の知る権利」を覆ってしまった罪をまた繰り返すことになる。
報道機関自身が民主主義を潰していないかという自問をこれからもしていくことを求めたい。

2009年9月8日火曜日

薩長同盟に学べ、社民党・国民新党

民主党、社民党、国民新党による連立政権の交渉が進められています。その交渉内容の詳細は分かりませんが、概観するに社民党、国民新党が駄々をこねているようにしか見えません。少数意見にも耳を傾けるという姿勢は当然ですが、根本的に異なる3党なのですから、何から何まで一致するわけがありません。
ミクロな政策の相違を問題にすることや党利党略の相克などはもっての外です。

思うに「小異を捨てて大同につく」という諺もありますし、また当時反目していた薩摩藩と長州藩が倒幕というマクロな目的に向かって薩長同盟を結んだという歴史もあります。尊王攘夷と言いながら開国を進めたのも薩摩・長州です。豹変するのも君子です。
要はミクロなことに頑なにとらわれて「子供の政治」をするのではなく、今政治の世界に求められている、戦後64年続いてきた体制からの脱却というパラダイムシフトを進める「大人の政治」です。

少数党だから背伸びをしたいと言う気持ちもあるでしょうが、「大人の政治」を見失うようなことがあれば、それこそ国民への反逆罪です。そのような目で国民は連立協議の推移を見ていると言うことをお忘れなきようお願いします。

2009年9月3日木曜日

社民党の党利党略体質

民主党、国民新党、社民党が連立協議を始めているが、社民党の対応を見ると、今回の政権交代の意味が分かっていないのではと、首を傾げたくなる。
国民が託した今回の政権交代への期待は、戦後64年間続いてきた自民党の政治体質からの脱却、「政治の再生」「経済の復興」「地域の蘇生」、つまり「世直し」である。
しかし、社民党は既にして、この原点を見失っているのではないか。

連立協議の動きを見ると、社民党のスタンスは社民党の「埋没」を恐れるという、自分の党のことしか考えていないように見える。これは党利党略以外の何物でもない。

例えば、「与党連絡会議」なるものを提唱しているが、何故自民党時代の与党での「部会」→「政調審議会」→「総務会」という政策決定の流れが機能しなくなり、官僚作成の政策をただ事前了承するという追認システムの連鎖になってしまったのかの分析が出来ていないのではないか。

私が思うに政策決定の階層が深くなればなるほど、官僚からの働きかけの場が増えるわけで、政策決定の透明性が崩れる。族議員なるものが生息できた素地もここにあると見るべきだろう。また責任の所在があいまいになるという問題も生まれる。
Simple is bestである。
つまり、「与党連絡会議」の案は社民党の利害のみを考えて出てきた物で、マクロ感がまったくない。

実は16年前の細川連立政権の際に演じた、「国民不在」の社会党の取った行動が党の凋落をスタートさせたのだが、当の社会党(社民党)はそうは思ってなく、当時党の方針を変更したことが原因と思っているらしい。
はっきりと言って、当時社会党も自民党と同じく、ご多分に漏れず55年体制のぬるま湯につかり、馴れ合い政治を演じていた。佐川急便疑惑では社会党も首までつかり、それに嫌気をさした国民が政治改革を望んだわけだが、選挙制度改革の法案審議で自民党と社会党は結託し審議拒否や参院での否決を演じたというのが歴史の事実ではないか。

行き着く先が、自民・社会・魁の連立政権で自民党の政権復帰となった。そして国民が長い間自民党の対極においていた社会党が国民を忘れた行動を取り始めてから一気に凋落が加速したのだ。これが歴史の事実だが、社民党はまだ当時の総括が出来ていないのであろう。今もってして、国民の目線を見失った行動を取り始めるところを見ると。

まず社民党は連立政権に入ると言っても、まず自らの足元を見直すべきだ。
今回の衆院選挙での比例代表の各党別の得票数を見ると、民主党(2984万:得票率42%)、自民党(1881万:27%)、公明党(805万:11%)、共産党(494万:7%)、社民党(300万:4%)となっていて、社民党は2005年選挙より71万票減らしている。これは国民の支持が今回も減ったということだ。

政権内での埋没を心配する前に、国民の信頼を勝ち得る政党になるために、今回の政権交代を安定的に定着させ、国民の政治への期待を確かなものとし、経済の安定的成長へと繋げていくことが今一番求められているのではないか。

2009年8月29日土曜日

「政と官」の本質を報道しないNHK

29日夜、NHKが各党首の選挙戦密着取材と称して総括の番組を組んだのを見ました。
報道は実像でなく、虚像であるのを改めて感じました。恐ろしい情報操作ですね。そもそも数多くある選挙活動のシーンの中でどこの場面の「情報を切り取り」そしてどこの場面の「情報に張り合わせるか」で話は180度変わることさえあります。実像が一気に虚像に化けるのが分かります。また、報道される各党の時間にも差別があります。これは公平と言う、衣を纏った、恐ろしく偏向された情報操作だと思います。

そして話しは続きます。報道番組で、麻生首相は仕切りに、「政策実現能力」とか、「長きに亘って日本の政治をしてきた実行力」とか、「外交力」とかを口にして、支持を訴えていました。NHKはそこまでです。

でも、真実を、透明性をもって伝えるのが報道機関の使命ではないでしょうか。今から15年以上前になると思います。今でも覚えている読売新聞の宣伝がありました。女子高校生が大人に向かって新聞を見ながら、確か「どうなの一体、透明性の確保とか規制緩和とかが必要だ」というようなことだったと思います。透明性ある報道に向かう勇気が報道機関にとって命と思います。

NHKの勇気が無いのは、麻生首相の発言がまたしても国民を騙しているのに、それを伝えていないことです。
8月27日読売新聞に「政と官」と題して野中尚人 学習院大教授と片山善博 慶応大教授の論説が載っていました。そして政策決定過程の流れ図が乗っています。
政策は各省庁の官僚が決定し、それを自民・公明与党の政調審議会、総務会がただ了承をする「追認システム」に成り下がっていると指摘しています。勿論内閣は与党から提出された政策をこれまた了承すると言う、「事前了承」の連鎖をしているのが実態なのだそうだ。政治不在です。
形骸化しているのに、「党主導」を演出し国民を騙しているのが実態なのだと思います。
麻生太郎はぬけぬけと「政策実現能力」とか、「長きに亘って日本の政治をしてきた実行力」とか、「外交力」とかを口にしています。

今回の選挙は「行政(官僚)が政治をやらない仕組みを作る」ことを目指す選挙だと野中教授は指摘されています。まさにそうだと思います。そして、「政治主導を強めるには官僚組織の透明化も必要だ」と片山教授は述べられています。

地域分権も「政と官」のぬるま湯的馴れ合い体質の創造的破壊と密接に絡んだものですが、地域経済の復興、社会基盤の整備と言う形で国民の目に直接見えるところだけに、国民としては「騙されること無く」しっかりと本質を見つめて一票を投じる責任があると思います。

とにかく自民党には「政と官」のぬるま湯的馴れ合い体質の問題の分析が出来ていないのが「自民党の本当の問題」です。でも、もしかしたら麻生太郎は本気で政調審議会と総務会が政策を作っていると思っているのかもしれません。これって「真夏のミステリー」より背筋が凍る話ですね。

2009年8月28日金曜日

変化させる勇気を示そう

連日のように麻生首相の顔がテレビに出る。連日のように「保守」と言っている。この「保守」は「保身」ということだ。言葉にも創造性がないから聞いていて飽きる。一生懸命にマイクを握っているのは認める。でも何か飽和しているという感じだな。
政治にも創造性がない。だから閉塞している。連日の演説の飽和感と、今の政治の飽和感が同じなのは、問題の本質に対し、自覚ができていないからだ。このような感性のない、「鈍」がやる政治は自覚がないからいつまで経っても「鈍」だ。

麻生首相は10日ほど前から、「景気が回復」したと言い放った。そして今日28日発表された7月の完全失業率は更に0.3%増えて5.7%。有効求人倍率も更に低下し0.42倍。消費者物価指数も-2.2%で消費低迷を物語っている。
こんな、いい加減な政治家で良いのか。言葉に責任を持て!冗談にも程がある。「鈍」の感性で政治をしているからだ。こんな首相と、この程度の政治家を首相として選んだ自民党、および結託している公明党よ、顔を洗って出直してこい。

自公両党と自公政権には「汗をかかずに、正確には汗をかいたふりをして、美味しいとこ取り」をする人間が多すぎる。知恵がなかったら汗をかけ!
汗をかかない人間は自分達の環境が変わることに抵抗する。なぜって、楽をして、儲ける仕組みが壊れて、これから汗をかくことになるからさ。つまり、「保身」に汲々している。

地球上に生命が誕生してから40億年。地球は青々と生き続けている。地球はこれまでダイナミックに環境を変えてきた。人間も生まれてから死ぬまで、体形、精神構造、感性もろもろ、変化している。皆さんも実感していると思う。変化が終わった時が、静止した「死」の瞬間だ。

政治も進化しなくてはならない。経済も進化しなくてはならない。社会も進化しなくてはならない。
自民・公明両党がしきりと言っている「守り」では「死」を待つだけだ。「変化」をすること、これが地球40億年の歴史が教えてくれる知恵だ。

確かに「変化」は知らないところを切り開いて行くので怖い。でもその緊張感が「感性」を鋭く磨くのだ。スポーツの世界を見ても分かる。お家芸と言われた柔道で、世界の変化に追随できずに敗れ去った柔道家が如何に多かったか。でも、研ぎ澄まされた感性で変化を読み、その変化を自ら行ってきた柔道家は金メダルを北京で取った。

「変化」の必要性を自覚しても、それに続く行動がなければ「守り」に入ったことと同じだ。今こそ、踏み出す「勇気」と「覚悟」で自らを運び、「運」をつかむ時だ。

黒船来航と言う変化に直面し、驚き恐れたが、国民一人一人が知恵と汗と覚悟で近代化を実現した。また軍国主義から民主主義へと8月15日を境にして大きく変わったとき、皆困惑した。でも国民の力を総結集して、復興を果たしてきた。これが日本人の特質だ。生き抜くために、大きく変わる創造的破壊が必要だ。
8月30日の選挙こそ「10里の路も9里をもって半ばとする」精神で、最後の最後まで「勇気」を示す時だ。

2009年8月25日火曜日

自民党の「冷戦構造」維持をもくろむ古い体質

自民党「政治活動」小冊子を見ながら、この小論を書いています。中身は民主党批判のものです。
この小冊子には社民党、日教組という言葉が散りばめられています。見るからに、
自民党右派と結びついている新保守主義的な集団が、冷戦時代が終焉した現在になお「冷戦構造」の舞台をセットし、1955年体制の脚本を演出することにより、保守層を取り込もうと画策しているものです。

このような古い体質で、しかも、時代錯誤の論理を振りかざし、「冷戦構造」を維持していこうとする先の野望は一体何なのか。小泉政権から安倍政権へと「右傾化」路線を進めた先になおかつ帝国主義的政治を訴えるこの小冊子の持つ意味に十分注意する必要があると思います。

今求められているのは、この帝国的政治に対して、右翼対左翼というステレオタイプの枠組みを外し、「富国の政治」を対極として育てることが、戦前軍官僚の独走で経験した日本の破局を2度と繰り返さないためにも必須です。

「政治はギャンブルじゃない」という文句が小冊子に載っています。これって「天唾」だということに気づいていないのですかね。ギャンブルの政治をしてきたのは自民党、あなたですよ。
我々国民は好むと好まざるとに関わらずに、トランプの安いカードを切るという、「安倍首相で、それが駄目なら福田首相で、それでも駄目なら麻生首相で」という自民党のギャンブルに付合わされてきたのです。その間、経済の悪化、国際的地位の地盤沈下、社会格差の拡大という借金が増えていったのです。

自民党は不良債権的政治家を切り離し、「不都合な真実」を隠蔽することなく、民主主義を熟成させる政治を積み上げていくことこそやるべきだと思います。こんな小冊子にお金と時間を使うのではなく。

2009年8月24日月曜日

自民党政治の劣化と公明党の役割 -第三幕-

2009年衆院選挙も中盤を過ぎ、ここら辺りから、「仮面」を剥いだ党の品格が出てきます。このような輩は「奇麗事を言ってはいられない、なりふり構わぬ戦いをやれ」と自己正当化をしていることでしょう。必殺仕事人に出てくる悪役商人と悪役お侍さんの姿が瞼に浮かびます。

このような出だしをしたのには訳があります。今朝の新聞で、公明党の自民党候補者への推薦は23日で272人になったと報じていました。いつものこととは言え改めて見ると、驚くべき数字です。
小選挙区定数は300名です。自民党は289名を、また公明党は8名を登録しました。そして自民党289名中の272名を公明党は推薦したわけです。実に94%強になります。推薦ですから、票割りだけでなく、創価学会の「三バン」を保証したわけです。

このような選挙協力の結果、どのような結末が待っているか、皆さんなら想像できると思います。
でも一体公明党と言う党は何物ですかね。自民党公明支部ですか?それならまだ良い方で、質が悪いと、高利貸しか「ヤク漬け」〇〇団になっていかなければ良いのですが。

世の中一般の力学に従うなら、当然「見返り」要求があると思うのが普通でしょう。するとこれって「癒着」とも別名言うのではないでしょうか。
この闇の関係を想像した時、必殺仕事人が登場してきたわけです。

でも、今回の選挙を通じて、
1. 自民党はますます弱体化し、政治の劣化が加速するでしょう。
2. 癒着の構造が「政・官・財」の間だけではないという事態が生じます。これは民主主義への冒瀆だと断言します。

慧眼なる国民の皆様、今こそ自民・公明両党協力関係の仮面の下に隠れている本質を見つめ、重大なる覚悟を持って事に臨むようお願い申し上げます。

2009年8月23日日曜日

経済成長戦略ー新国家像

昨日8月22日、日本テレビ番組「ウェークアップ!ぷらす」で2009年衆院選挙の争点<経済成長・財政再建>を取り上げ6党の代表を交えて討論を行っているのを見ました。司会の議論の問題設定の仕方・進行もよく、各党の考えかたや政策立案力の違いが浮き彫りにされ、いい番組になっていたと思います。6党の中でも民主党の福山哲郎 政調会長代理は日本経済の実情、問題点、民主党の政策をしっかりと定量的に掘り下げて説明しており、党の問題に取り組む真剣度が聞いているほうに伝わってきました。また、しっかりと勉強している、筋の通った若い政治家がいる民主党の若い力を見た思いです。
どこかの党の首相のように、定量的に経済を掘り下げた説明ができない、経済の実情をしっかりと自分の頭で考え、意味のある数字の連結として理解できていない、経済に対する直感的なセンスすらも感じさせない党とはまるで違います。

国の経済成長・財政再建・地域分権と地域経済・社会保障システムなどは多くの面を持ったサイコロの一つの面のようなもので、どれもこれもテーマとしては別々に取り上げられても、政策としては切り離されたものであってはいけません。そしてこれらをひとつ束ねているのが「政治力」だと思います。ここが重要なポイントで、これまでの自公政権の政策は各省の省益を反映した単なる政策の寄せ集めであり、それを束ねる政治が不在であるため、非常にいびつな形をした無駄の多いサイコロになっているというのが現状です。
今回の民主党提案のマクロ観はこのサイコロを無駄のない形に戻し、各々の面の政策を連結した政策として運営して行くというものだと理解しています。勿論サイコロの各面はマニフェストに書かれているように各々な色づけがあっていいものです。

昨日の福山さんは<経済成長・財政再建>という面を、しっかりと定量的に問題を捉え、かつ掘り下げ、それらを踏まえた政策として説明していました。

私は常々経済の数字の変化の意味を一生活者の目で見て、肌で感じて、考えています。
日本の経済成長をマクロ的に見た時、経済全体の供給力を表すといわれている潜在GDP(国内総生産)の成長率の推移が重要な切り口になると思っています。1990年には4%ほどありましたが、年々減少し、2000年には1%を切るくらいにまで低下しています。その後は1%前後で推移をしているのだと思います。そして、つい先日日銀が潜在GDPの成長率が1%前後より低下している可能性を指摘しており、またIMFも潜在GDPの成長率は金融危機を境にして低下していると警告しています。詳しい数字は公表されていませんがおそらく1%を下回っているのは確実な状況と思われます。

中身を見ると、潜在GDP成長率を構成する3要素(生産性、設備などの資本力、労働力)のうち、資本力、つまり設備投資が確実に1990年以降年々低下しています。それに加えて最近富に増えている失業率が潜在GDP成長率を押し下げています。
まず、国全体で設備投資が減っているということは、構造的な問題です。つまり、高度経済成長を牽引した産業構造からの政策的転換が出来ていなくて、そのまま低成長モードに入っているためだと思います。
また、設備投資が減少するということは、設備の稼働率低下も意味しており、労働者の余剰に繋がってきます。失業率の定義にあいまいさがありますが、企業内隠れ失業者も潜在GDPに反映させるべきで、そうすると内閣府の数字より実態は更に低い値になっている可能性があります。

成長戦略は、この潜在GDP成長率を如何に増やしていくかに尽きます。通常の成長率は実質GDP成長率をさしており、需要面の数字です。実質GDP成長率には輸出の影響が強く反映されますので、この数字は経済成長の構造的な問題を隠蔽してしまいます。

これまで自民党がとってきたやり方は、経済成長の構造的な問題の本質を国民の目から隠蔽し、その上で輸出依存型大企業の利益拡大で成長を演出することでした。このやり方がもたらした結末が、今我々国民が苦しんでいる、国民一人当たりの名目GDPの地盤沈下と所得再分配がなされない格差拡大です。

今回の自民党の公約もただ2%という実質GDP成長率の数字をあげているだけです。潜在GDP成長率を増やす施策については、まったく触れていません。これでは成長戦略になっていません。しかし麻生首相は成長戦略という言葉を使って国民を騙しているのです。まったく反省もなく小泉政権以降取られてきた円安誘導の輸出拡大政策を踏襲しようとするだけなのですが。

私は、日本経済の構造的な問題を解決するキーワードと方針は、
1. 中小企業力の底上げ
2. 多様化した雇用形態の活用
3. IT化の浸透と地域活性化
だと思っています。これにより潜在GDP成長率増加を目指すべきと思います。まず現状の2倍化を目標にしたらいいと思います。
中小企業は大企業の下請けという捉え方がこれまで強いですが、よく考えてみてください、今大企業といわれている会社も始めは小企業です。アメリカのベンチャ企業も小企業です。下請け的な環境から中小企業が大きく飛躍していくためにはインフラ整備をすることが政治的に重要です。
また、派遣という形態の労働力もこれまでの大企業の景気調整弁という捉え方から発想を変えて、むしろ労働市場の流動化のトレンドの先を行く雇用形態と位置づけ、積極的に活かしていく施策が求められていると思います。これに伴い、勤労者再教育システム、新しい雇用形態として社会システムに定着させる価値付与と他の雇用形態と同等の社会保障が受けられる仕組み作りが重要と思います。
私は上記の3点は民主党の雇用・経済対策の政策に繋がっているものと見ています。

今後の育成産業分野については、各党の皆さんはほぼ同様に環境分野、エネルギー分野、医療分野などを語っており、その通りだと思います。重要なのは各々の分野だけでなく、それらの分野でどのように国力に繋げていくかです。それは構造改革以外の何物でもありません。
「政治の再生」「経済の復活」「地域の蘇生」で統合的に改革することにより生まれる相乗効果で「日本列島新!改造」計画を進めることこそ民主党の戦略であるとマニフェストを読んで理解しました。

2009年8月21日金曜日

自民党政治の劣化と公明党の役割 -第二幕-

歴史的な考察も交えて「政治の再生」が急務であることを、これまで度々主張させていただきました。2009年衆院選挙は「政治の再生」へ大きく舵を切るか、それとも既に機能不全に陥っている政治の仕組み、経済の仕組み、地域社会の仕組みが続くのを甘んじて受けるか、大きな選択の選挙です。
振り子は戻る範囲を越えたら戻りません。組織は硬直化したら、元に戻るチャンスを失います。そのことは今から約70年前に政治不在の故に軍官僚の暴走を止められなかったという事実が証明しています。

さて先日、戦後の自民党政治の劣化を分析し、掲題の小論を述べさせて頂きました。その中で、原因として下記を指摘しました。
(1) 世襲議員が多くを占め、地盤・看板・鞄の苦労も無く、政治の理念も希薄
(2) 選挙票頼みの公明党との数字合わせの連立で政治の原点が見えなくなっている

今日は第二幕で、更に深く、劣化の問題の本質に迫って見たいと思います。
問題の全貌が開ける糸口は「公明党」にありました。

代々続く選挙区から出馬する世襲議員は、三バンと言う言葉で表される地盤(後援会)・看板(知名度)・鞄(資金)を何の苦労もなく受け継ぎます。そして、実は公明党議員も、世襲というスタイルこそ取っていませんが、創価学会という組織に乗っかって、堅固な地盤(抜け落ちることのない票数)、ビラを貼らなくても組織内で知れ渡る知名度、そして潤沢な資金を保証されたところからスタートしているのです。

皆さん、両者が非常に類似していると思いませんか。組織の堅固さがあるが故に三バンに匹敵していると思うのは、思い過ごしでしょうか。自民党も公明党の三バンに期待しているからこそ、連立を組んでいます。

この視点に立つと、政治の劣化の本質は、政治の原点である「国民に向き合い、国民の声に耳を傾け、国民の目線で、国民主権の政治」を行わなくても議員の職に就けるという仕組みにあることが分かってきました。だからこそ、世論を無視してこの4年間、政権の座に恋々とできたのです。もし彼らがこれからも政治家として生きて行きたいのなら、三バンあるいはそれに類する仕組みをリセットして出直すべきです。それが自らできないのであれば国民が教えてあげる必要があると思います。

成熟した民主主義では自らの意思と責任に基づき、「NO」も言える、「YES」も言う行動が必要です。これは多様の個人主義を孕んだものです。しかし、この10年間の自公政権の足跡はどうだったでしょうか。特にこの4年間、2/3の多数の暴挙で政治不在を加速してきただけでした。残念なことですが。

国民の皆様も「政治の再生」に向けて是非、動いていきましょう。

政治の再生と品格

衆議院解散から選挙まで長い長いと思いつつ、後10日になりました。
8月は日本の夏。気温も暑いです。
我々国民も気持ちを熱く、「創造的変革で甦れ、日本」を合言葉に、次世代に繋がる仕組みに「脱皮」していく、時が来ました。

政治の劣化の話はこれまで度々指摘してきましたが、自民党幹部と称する方々の最近のお言葉には、政治家の薫りがまったくない「子供の政治家」のような品格を感じます。

1985年旧ソ連のゴルバチョフ書記長が理念として掲げた「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」は、旧ソ連共産主義体制の行き詰まりと仕組みの機能不全の打開のために投じられた一石でした。これが結果的にソ連を中心とした共産主義体制の崩壊を引き出し、東西冷戦構造に幕が降りたのでした。まさに創造的破壊ですが、政治家の品格があります。
様々な曲折は経ていきましたが、民主化を目指したゴルバチョフ氏の理念と行動は今でも高く評価されています。

壮大な歴史の実験を経て、社会主義というイデオロギーはいまでは博物館に展示されるようなものなのです。もし現存するとするなら、それは人類が歩んできた歴史の中で、絶えず追い求めてきた「人間らしい尊厳と豊かさ」を一人一人の人間が持てる世の中にしたいということだと思います。

そのような思いを歴史から学んでいるなら、麻生首相が民主党の子供手当て政策に対して言った、「ばらまき、社会主義の政策だ」という表現は、出てこないはずです。
また、何を思っているのか、「革命はさせません、日本を守る」という言葉も度々口をついて出てきます。守旧派層の掘り起こしに躍起になっているのでしょうが、偏見に満ちた、子供じみた品格だと思います。
よくもまあ、これで外交の麻生だと言ってきたものです。

そのような麻生自公政権ですが、自民・公明の党の体質にも気がかりなことがあります。政治的に成熟した民主主義が今後の日本の「政治の再生」に必要なのですが、自民・公明両党は民主主義の成熟と逆行する動きしています。先の東京都都議選で世論の厳しい批判を受けた自公両党ですが、世論の真意を理解しようとするのでは無く、傲慢に自分たちの「ご都合」を押し付ける議会運営をし始めています。このような子供じみた闘争論理は、国民主権を踏みにじり、世論無視に繋がる動きであることに気が付いていないようです。これは、政党政治を否定する以外の何物でもありません。

「政治の再生」のために、大人の政治を学んでもらいたいものです。

2009年8月20日木曜日

国民が豊かになる経済成長とは?

麻生首相は2009年衆院選挙の争点として「経済成長政策の実績」と「成長戦略」という言葉を多用しています。しかし話を聞けば聞くほど、この人はまったく経済に無知な人だなと思います。これだけ経済に無知な人に景気対策を、また国の経営を任せてきたこと事態が、日本の失敗です。それにしても、「経済」という単語を並べるだけで、あたかも分かっているかのように国民に説明するのは、誤った情報を伝えることになり、国民に対する背信行為以外の何者でもありません。発言・言葉に責任の無い証拠です。「責任力」が聞いてあきれます。

さて、経済の実態を見る必要があります。公示後の演説で、経済成長政策の実績として内閣府から公表された2009年4~6月期の実質GDP(国内総生産)成長率の年率換算値3.7%を取り上げています。この値は年率換算ですので実際の4~6月期の実質GDP成長率は前期比で0.9%です。実質GDP内訳で公共投資の伸び8.1%および輸出の伸び(特に中国向け)6.3%がありますが、しかし、物価変動の影響を含む名目GDP (これは生活実感に近い指標です)では前期比でマイナス0.2%です。つまり、名目GDPは成長で無く、引き続き後退しています。さらに加えて名目と実質が逆転しており、これはデフレ圧力が高まっていることを意味しています。経済は成長モードでなく縮小モードになりかかっています。

その証拠に、実質GDP成長がプラスになったといえども、失業者の割合は増え続けています。2009年4月、5月、6月の完全失業率は5.0%、5.2%、5.4%です。この5ヶ月で1.3%も増大しています。
また、失業率と並び経済の動向を判断する上で重要な指標である、企業における「設備の過剰」は5期連続で過剰状態が続き、4~6月期の設備投資は前期比でマイナス4.3%です。

経済動向を見る指標である、「雇用の悪化」「設備投資の抑制」「デフレ圧力」全てが経済成長を示唆していません。ただ、「いざなみ景気」の時と同じように輸出で数字上実質GDPを押し上げているのです。
経済状況は、麻生首相が言うような「成長が国民実感にまだ至っていない」というような状況ではなく、経済官僚、民間エコノミスト皆様が、雇用問題が今後の最大の景気押し下げリスクである、として警戒しています。特に失業率に「企業内隠れ失業者」607万人を含めると完全失業率は13%程に達するとも言われています。仕事に従事していても賃金が前年比でマイナス8%でとなっており、また今年の夏のボーナスが1部上場企業ベースですが前年比マイナス18.3%となっており、「デフレスパイラル」の危険性が強くなっているのが実態です。

それを、麻生首相と自民党、および公明党は「目の前の景気対策」効果を自画自賛するだけで、これまでの景気対策を継続してやるとしか、今後の経済運営方針を説明していません。
これまで取ってきた経済運営が間違っているにも拘らず、です。

では何が間違っているかを次に示します。
この20年の間に、共産主義の失敗そして新自由主義の失敗も経験しました。歴史は、経済体制が脱イデオロギーへと進んでいくことを、示しています。
代わって、温暖化対策に代表されるように「地球との共生」を、また「新自由主義への規制」のもと、どのように貧困、格差と戦いながら民の豊かさを実現するかという、人類と経済の発展の歴史の原点に戻ることが求められています。
それにも拘らず、この10年間、自公政権は本来やるべき、またやれる立場にありながら、高度経済成長期以後の産業構造を変えるという「構造改革」をしてきませんでした。円安誘導で外需依存の古い産業構造を温存し、実質GDPの成長を求めただけです。1年前までは輸出依存の大企業やマネー資本主義の恩恵に与った金融業界が過去最高の収益を塗り替えるという「いざなみ景気」でした。

しかし、国民の生活レベルに関連する、国民一人当たりの名目GDPはOECD(経済協力開発機構)加盟国30カ国の中、1994年の2位、2000年の3位まではそれなりの位置にありましたが、2000年以降ランキングは下落の一歩をたどり、2006年18位、2007年23位です。この時期は小泉政権以降の時期に対応しています。つまり「いざなみ景気」の裏で国民一人ひとりの生活実感では、給与の削減、雇用の喪失などにも曝されてきており、生活苦が拡大してきたと思います。
勿論、世界経済に占める名目GDP総額割合でも2006年9.1%、2009年に8.1%の見通しで、1994年の17.9%と比較すると半分以下となっています。世界経済の中で、日本経済の存在感の低下・地盤沈下は鮮明となっています。

加えて、「いざなみ景気」の勤労者の汗は勤労国民へ還元されることはなく、国民一人当たりの名目GDPの数字以上に、働けど貧しくなるという「負の歯車に巻き込まれていく」状況が生まれてきているというのが実態だと思います。

最近は100年に一度の金融危機という言葉が麻生首相から聞こえなくなっていますが、1年ほどで景気が回復するなら、半年前にしきりと言っていた「100年に一度の金融危機」は何だったのでしょうか。
でもおそらく実態はそれに近いものになることを想定して経済政策を立てるべきで、「私どもの経済対策はあたった。(これまでの)経済対策を継続する」という自民党の見立てのレベルでは到底ないと思います。
1930年の世界恐慌では、第二の金融危機がヨーロッパで火を噴きました。今回もヨーロッパが危険です。欧州第5位の経済大国スペインの6月の失業率が18.1%に達しました。ユーロ圏16カ国の平均失業率でも9%を超えています。

歴史は当時のニューディール政策の処方箋を次のように教えてくれています。
(1) フーバー大統領は小さな政府に固執して連邦政府として財政出動をためらった。
(2) 加えて、恐慌の最中に赤字財政を改善しようとして傷を広げた。
(3) ルーズベルト大統領も当初、財政均衡を掲げたが、なし崩しにし、政府の景気刺激策を続けた。
(4) 財政発動を減らすと景気が一気に落ち込むという状態を繰り返したが、第二次世界大戦後の平和がやってきて始めて民間経済活動が自律的に回復軌道に乗った。
となっています。

今の日本でも1930年の時と同様に金融危機の第二波も見越して、当面は効率的な財政出動による景気刺激を進めると同時に、「経済の復活」と密接に関係する「政治の再生」による国民力の結集と「地域の蘇生」による中小企業力の拡充が大切だと思います。これこそ民主党の「経済成長戦略」になっているものだと思います。

2009年8月17日月曜日

自民党政治の劣化と公明党の役割

悲しむべきことですが、自民党政治の質の劣化の具体的な事例には事欠きません。中でも安倍・福田両首相が1年で一国の総理大臣の職務を放棄した事件はまだ記憶に新しいと思います。両首相は自民党総裁として圧倒的な党内支持を得て選ばれました。そして前任の首相が途中で職務放棄をすると、懲りずに同じ思考で、しかも圧倒的な党内支持で次の総裁を選び、これまた同じように1年で職務放棄をするということを繰り返したのです。麻生首相の任期はまだ1年経っていませんので、途中放棄という事態には至っていませんが、執行している政治のレベルは両先輩首相と同じです。

問題は安倍・福田・麻生首相の国の経営者としての通信簿の点数が低いということだけでなく、リリーフピッチャーのような総裁を自民党が高い支持率で選出し続けてきたという事実です。勿論国民に信を問うというプロセスはまったく行っていませんし、国民への総括もしていません。

少し考えることの出来る議員なら、自分たちが選んで国の経営を任せた総裁が行った職務放棄に対して、自民党が取った行動はどれほど不合理で、矛盾に満ちているかわかりそうなものです。しかし、実際は1度でなく、2度も行い、3度目も起こりそうになったのです。これは江戸時代も末期のお家大事で揺れ動くに等しいでしょう。

このような事態に陥った理由は色々とあるのでしょうが、
(1) 世襲議員が多くを占め、地盤・看板・鞄の苦労も無く、政治の理念も希薄
(2) 選挙票頼みの公明党との数字合わせの連立で政治の原点が見えなくなっている
これらにより、政治の質が劣化しているのです。

そして、2009年自民党公約では、世襲に対する世論の風当たりを和らげるため、世襲の制限を設けました。しかし、実はこの制限に関して面白いトリックが今回予想通り現れました。公約では引退に伴い同一選挙区での世襲候補の公認または推薦をしないとしました。そこで青森1区で津島前議員の長男が無所属で出馬することになりました。ところがここからトリックです、公明党が津島氏の長男の推薦をすることになりました。青森1区で自民党が他の公認候補を出馬させるなら、世襲議員を「公認も推薦もしない」という論理は実質的に完全に履行されますが、対立候補者を立てないとか、公明党が推薦するとかと言うことになれば、実質公認に等しく、当選後自民党に所属させるという道筋も見え見えというものです。他の選挙区でも同様です。

何故世襲に制限を設けて自律的に体質改善を進めて行かなくてはならないのか、問題の本質が分かっていないのです。つまり政治の質を劣化させてきているという自覚が無いのでしょう。

麻生首相がしきりと「責任力」なる言葉を多用していますが、おそらく責任という言葉の意味も分かっていないのだと思います。
政治の質を取り戻す、成熟した民主主義による議会政治を築き上げる、これが議員にも、国民にも求められている、今一番重要なことです。2009年衆院選挙をこの心意気で切り開いていきましょう。

自民党政治歴史検証

2009年衆院選挙に向けて争点作りがマスコミでは賑やかになっている。そのこと自体は歓迎すべきことなのですが、マニフェストの個別項目の比較で争点を作っていくやり方は「木を見て森を見ず」になる危険性があり、注意が必要です。ミクロな政策論争の前に、今後目指すべき国の姿と方向をまず議論することが必須です。そのためにはマクロな歴史認識で過去を振り返り、当時日本が直面した状況・問題と今の状況・問題とを比較する必要があります。このことにより、渦中にあっては見えにくい今後の事態の展開、問題解決の糸口を得ることが可能になります。

では今の日本を歴史の流れの中で見ることにします。
近代史では政治システムが大きく変わった時が2度有りました。第一が1868年の明治維新で、第二が1945年の第二次世界大戦敗戦のときです。この間の77年の間に急速な近代化革命が進みました。長い徳川幕藩体制がもたらした閉塞した社会、国民の自由を拘束してきた社会、世界の動きに対応できない政治システムに終止符を打ち、そして経済面でも国民の活性化により大きく成長しました。
しかし、本来の民主主義が育っておらず、政治家の汚職事件で双方の政党が非難合戦を繰り返すうちに「政党政治の崩壊」に至りました。政治不在、そして追い討ちをかける検察官僚の暴走による偽造の汚職事件デッチ上げで、日本の民主主義は息の根を止められ、次第に日本国家という組織が硬直化し、国民不在の軍官僚組織が国を動かし始めていきました。旧日本軍青年将校が暴走した5・15事件は明治維新から64年目に起きました。そして第二次世界大戦への開戦と敗戦へと突き進んだのでした。

第二の第二次世界大戦敗戦では、これを契機に全体主義的政治構造からの改革、国民主権の導入と、財閥解体、農地改革などの経済の民主化も進みました。因習的な経営層を排除し、若手抜擢を進めたこともあり、高度経済成長を遂げました。

しかし、戦後から64年経った2009年現在はどうかと言うと、明治維新から60年以上を経たときに経験した、政治の不在という状況が、同じように現れてきています。政治の不在が起きると、当然ですが国の経営には一時の休みも許されないので、官僚に実質権限を取る口実を与えます。そして、
(1) 戦前、政治家が軍官僚をコントロールできなかったように、今の自民党・公明党政権は官僚をコントロールできていません。それどころか、政策作り全てを官僚に任せています
(2) 国民不在の軍官僚組織が国を動かし始めたのと同じように、今の自民党・公明党政権の下で国民不在の官僚政治が進行しています。
その結果、
(1) 人間を人間と見ないで使い捨てる、効率化のみしか考えない「特攻」があみ出されたのと同じように、最近の派遣社員の使い捨て、団塊の世代に代表される高度経済成長を牽引した「企業戦士」の使い捨てなど、効率化のみを求めた施策が展開されてきています。
(2) また、縦割り行政、隠蔽と組織の保身体質、責任所在の曖昧さ、場の雰囲気に流される沈黙などの硬直化した組織の弊害を政治が破ることが出来ないため、官僚制が合理的なものになっていません。

政治の貧困と硬直化した官僚組織がもたらす問題には、経済の問題も大きなものとしてあります。この10年、はっきりと経済力に陰りが現れています。高度経済成長期が踊り場に達してからは産業構造を変える「構造改革」が必要なのですが、それには手を付けず円安誘導で外需依存の古い産業構造を温存して来ました。そして自民党はただ十年一日の如く「経済成長路線」という言葉だけを力説するだけです。この路線が実質的にどのように経済力に影響を与えてきたか、その実態は国民によく知らされていません。国民の生活レベルに関連する、国民一人当たりの名目GDP(国内総生産)はOECD(経済協力開発機構)加盟国30カ国の中、1994年の2位、2000年の3位まではそれなりの位置にありましたが、2000年以降ランキングは下落の一歩をたどり、2006年18位、2007年23位です。この時期は小泉政権以降の時期に対応しています。国民一人ひとりの生活実感でも、給与の削減、雇用の喪失などに曝されてきており、年々レベルダウンだと思います。そして格差の拡大を感じています。

勿論、世界経済に占める名目GDP総額割合でも2006年9.1%、2009年に8.1%の見通しで、1994年の17.9%と比較すると半分以下となっています。世界経済の中で、日本経済の存在感の低下・地盤沈下は鮮明となっています。

ところが、1年前までは過去最高の収益を塗り替えるという「いざなみ景気」拡大などの文字が新聞紙面を賑わしていました。ご存知のように利益を上げていたのは外需依存の輸出型大企業であり、またマネー資本主義の恩恵に与った金融業界でした。そして勤労国民への還元はなく、国民一人当たりの名目GDPの数字以上に、働けど貧しくなるという「負の歯車に巻き込まれていく」状況が生まれてきています。

そして、この延長上で、昨年秋葉原での通り魔事件は起きました。やり場の無い叫びを上げている個人を巨大な組織が押し潰した瞬間に絶望のマグマが爆発したものだと思います。政府の対応は歩行者天国廃止や銃刀法改正など安全・治安の確保のものだけでした。問題の本質である個人個人の生活が破壊される現場の姿を見ようとはせず作戦を立てるようなもので、官僚的以外の何物でもありません。現場を見ない作戦は太平洋戦争でもあり、そして失敗しました。

このまま、政治の不在を放置すると、戦前経験したように、「巨大な官僚組織あって国家なし」という国民不在の組織に発展していかないと誰が断言できるでしょうか。成熟した民主主義による政党政治により議会政治は新陳代謝をすべきです。また政権交代による政党主導の政治体制を進める過程で成熟した民主主義体制へと脱皮していくべきです。

戦後64年間日本の政治を支配してきたのは自民党です。一時期、非自民の政権も誕生しましたが、自民党は世論に謙虚に耳を傾け新陳代謝を図るということはせず、政権復帰を最優先にして体質を変えないまま政権の座に戻り、その後はご存知のように「選挙の票頼みの、公明党連立」でどんどん政治の質の劣化を加速してきました。
再度自民党政権の体質をまとめると、
(1) 官僚任せの政策作り
(2) 選挙票頼みの公明党との数字合わせの連立
(3) 世襲議員の占める割合の多さ
(4) 経団連企業からの献金頼み(自民党:約29億、民主党:約8000万)
(5) 世論無視で政権に恋々と居座り。安倍・福田・麻生首相と毎年のように首を変えるが小泉政権以降の総括も無ければ、憲法第1条で定める「国民主権」も踏みにじる無法者。国民の声に耳遠い、
です。

この自民党は、戦後の対共産圏冷戦構造の防波堤として、米国世界戦略の中でスタートしました。1980年代後半には東西冷戦も終焉し、世界的には脱イデオロギーの政治システムに移行して行きましたが、自民党は昔の55年体制の考え方から抜け出ていません。経済面では官僚の引いた戦後復興の高度成長路線のレールに乗って基盤を固めました。しかし高度成長期も踊り場を迎え、新たなレール作りが必要になりましたが、その歴史的転換に追随できずに、今に至っています。この新陳代謝の出来ない自民党の歴史的賞味期限はすでに切れています。

今こそ日本を再生させる「第三の波」を起こす時です。真に成熟した民主主義を根付かせ、国民の持てる力をオーケストラし、次世代に繋がる日本にする一歩とすべきときです。2009年総選挙はそういう選挙です。

2009年8月9日日曜日

知事会は「分権」劇場の三文漫才師か

今朝の新聞を見ました。地方分権公約に関するマニフェストの知事会採点表が乗っていました。
自民党60点、公明党66点、民主党58点。

実は8月3日の新聞で自公政権実績検証大会での全国知事会の数字が掲載されています。政権運営58点、政策実績56点と9グループの中で最高と言っていい評価を与えていました。

これらの数字を見ると、知事会は口角泡を飛ばして、色んなことを言っているが、本当は困っていないのではないだろうか。数字は正直にそれを物語っていると思います。つまり、
現状には60点近い満足度を与え、しかも現政権を継承する2009自公政権公約にこれまた60点以上の満足度を与えている。
そして一方でこれまでメディアを前にして、「中央集権官僚制の仕組みを変える」と豪語してきてます。
この二重性を海外から見たら、「わけの分からない国、日本の政治」と言われかねないと思います。
ひょっとしたら、これって「分権」劇場の三文漫才なのではないだろうか。

その裏付けが「中央と地方の行政システムの根本的なあり方」に深くかかわる道州制の議論でいみじくも見て取れます。
公約の文言を比較すると、2005年公約では道州制では「導入の検討を推進する」となっているのに対し、2009年公約では「検討機関の設置」となっています。実質はなんら変わっていません。
そしてその文言は、よく国会答弁に出てくる官僚的文言の「検討の推進に、前向きに善処します」から一歩も踏み出していないと思います。ある意味今後言質をとられないような曖昧さに包まれた内容です。

分権にとって核ともなる問題で、このようないい加減さを知事会は2005公約評価でも受け入れ、2009公約評価でも受け入れています。本当に知事会は地方分権を考えているのでしょうか。

しかし日本にとって、地域分権への切り込みは、非常に重要で、今の停滞した日本の政治を活性化させる道のひとつです。とくに中央官僚機構改革は今まさにやるべき時なのです。
何故なら、中央官僚機構は恐竜のように巨大化し、そして恐竜のように、環境の変化に適応できなくなっています。
そしてこの対応を間違えると戦前の陸軍省、海軍省の軍務局・参謀組織の独走に政治が歯止めをかけられなかったという苦い経験を繰り返すことになります。

知事会が描く地方分権がどのようなものか、本質をじっくり見抜く必要はありますが、これまでの流れの中ではっきりと見えてきたのは、国民が「表層の議論」でない問題の本質を見ていくことの重要性です。

2009年8月8日土曜日

官僚好みのマニフェスト点数化

マニフェストを2005年当時のもの、そして2009年のものを読み進めて、この国が直面している、そして国民の皆様が感じている将来への不安、日本社会の閉塞感、日本の国際的ポジションの地盤沈下が何故起きたのかを考えています。

そして、既に指摘されてきたことですが、”マスコミと官僚が政治を小さなものに貶めている”ことに改めて気が付きました。

マニフェストの点数評価がこのところ新聞、テレビなどで話題になっていますが、確かな確度でこの点数化の発想は官僚が仕組んだものでしょう。

会社でもそうですが、比較表と点数化をするとなにやら分かった気になるトリックなのです。一見方向が決まるようでこれらからは何も決まらないと言うのが本当の姿です。そしてこのレベルで留まってビジネスのタイミングを逸するような組織を称して、大企業病とか官僚化した組織と皆さんは呼んでいると思います。

とくに点数化は自分の決断の責任を玉虫色にするための手段です。とくに官僚のように。。。。。

今回の選挙でマニフェストを「点数化比較のレベル」に貶め、政治のあるべき姿を目くらましの状態にしているのが、マスコミであり、公平性を装った機関だと言う現実に国民は気が付くべきでしょう。
それが何故かという突っ込みも必要でしょうが、今はそう言う社会環境にあるという事実認識がむしろ重要です。

会社でも、情勢変化の風を肩で感じて、迅速に決断もって投資・撤退が出来るところは成長する企業です。リスクもありますが緊張感があるダイナミックな動きができます。
その経営常道の類推を国の経営に当てはめてみると、最初に書いた日本の現状の病根が違った角度から見えてきます。

政治も経済と同じに生き物です。世界情勢は日々めまぐるしく変わっています。政治家は会社の経営者と同じに情勢変化に迅速かつ柔軟に適応が出来ないと勤まりません。そして自民と公明両党の政治ではそれが出来ていなかった。この一点に尽きます。

今回の選挙ではこの一点のみが投票先決断のポイントだと思いませんか。もしこの10年以上にわたる自公政権の政治が国内、国際の政治課題に迅速、柔軟に対応してと感じておられるかたは賛成の一票を投じればいいし、政治の質の劣化と経済・産業構造が沈滞してきていると感じておられる方は反対の一票を投じるのが筋でしょう。非常に分かりやすい。

官僚好みの点数化により、改めて「政治の矮小化」が進み、政治危機が更に深くなるという事態には国民は「覚悟」を持って臨むべきだと思います。
政策を「覚悟」ある決断で実現する政治家を選ぶと同時に、マスコミも含めて「政治の矮小化」を加速している社会状況の中で国民も「覚悟」を持って決断をすべき時が来たと思います。

2009年7月30日木曜日

自民党政権公約2005の検証-1-

2005年政権公約の自己評価を細田幹事長が行った。その結果が昨日公表された。
「取り組み中、あるいは一部実施」がB評価で、全てB以上とのことである。

公約の議論では、2005年政権公約を実際に見る事が大事なので、下記ウェブサイトに掲載されているのでご確認頂きたい。

http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2005_seisaku/120yakusoku/

中身を見ていただければ分かるが、そもそも公約が法律上の文言のように微妙な言い回しで書かれていて、解釈でどのようにでも逃げることが出来るものになっている。

たとえば一例として「地方分権」とあわせて「地方行政改革」を断行します、と言うくだりに関連して、「道州制導入の検討を促進」があるが、あくまで「検討の促進」が目的で、「導入の促進」ではない。4年経ったいまでも道州制の道筋すら固まっていないのに、検討を促進したということでB評価になっているのであろう。
また、「(導入検討の)先行的試みとしての北海道道州制特区を推進する」と言う文言がある。ここでも特区の検討が一度でも議論のテーブルにあがれば「推進」したことになる仕掛けとなっている。
勿論4年経ても特区の概念などは存在しない。

本来公約とは実現されるべきゴールの姿が具体的であってこそ初めて意味をなすものなのだが、実態は表面的な「美辞麗句」の言い回しに終始しているため、逃げ道が張り巡らされているから公約を実施したかどうかの議論がナンセンスなものになっている。

と言うことは、公約の検証のあり方は、単なる公約実施のレベルで留まるのではなく、現場で見えている、抱えている問題に対して、「あいまいな文言を掲げた」自民党は何をしてきたのかと言う率直な視点で評価をすべきだと思う。それは国民一人一人が審判を下すものなのだと思う。

そして、その審判を下すための判断材料は必要であろうからそれをこれから提供していきたい。

まず第一回は、郵政選挙の唯一の争点として取り上げられた「民営化」と言う言葉が目指した本丸が一体何だったか、そしてその他の公約も掲げられていたが、その議論はスキップして、国民への説明責任すら果たさずに、2/3議席の暴挙で我々の生活を蹂躙したものは何だったのか。これを追って見ていきたい。

まず、郵政民営化とは一言で言えば、本丸は340兆円の郵貯・かんぽのマネーを自由に運用できるようにすることで、それは「アメリカの年次改革要望書」で書かれた、アメリカの金融会社が運用したいという要求を、小泉政権が忠実に実現させたものなのだ。「民営化と改革」という華麗な言葉に多くの国民が騙された。

上記のことは言い換えれば、新自由主義とかマネー資本主義のもとで暗躍したサブプライムローンの嵐に勢いを付け、世界を100年に一度の金融危機・不況に引きずりこんだ元凶の片棒を担いだことになる。これは非常に大きな責任問題である。

そして、郵政民営化の争点に隠された、しかし非常に重大な影を我々の生活に投げかけることになる問題の部分は、
1. 三位一体改革: 地方補助金廃止と地方交付税見直し、一方で財源委譲を拒む構造のため財政破綻の地方自治体が続出。
2. 医療制度改革: 後期高齢者医療制度で老人医療費補助の削減と老人の貯金を吸い上げる構造を実施。「安心な生活」と言う言葉とは裏腹な仕打ちをしている。
  また、産婦人科医、小児科医の減少を導き出し、多くのたらい回し失命という事態を生んだ。
  さらに、医療機関での介護的・リハビリ用ベットが廃止されることになり、路頭迷う弱者が続出。
3. 介護保険制度改革: 介護レベル認定基準が引き下げられ、介護現場での介護要レベルとの乖離という問題など、介護システムの崩壊という危機に瀕している。
4. 年金制度: 年金システムの破綻を検知していたのに、表に出さずに、社会保険庁を廃止しすることで、闇から闇に葬ろうとした。
5. 非正規労働者対策: 対策はなされず、加えて「非正規」を広く認知させて、多くの安い労働力として潜在させる構造になり、結局今回の不況で多くの失業者を生み出した。
6. 肝心要の政治改革、国会改革、公務員制度改革、地方分権などが骨抜きのままである。天下りの改革も放置されてきた。なにが「郵政民営化」を突破口にして「改革断行」だ。

である。

これらの多くの問題を抱えながら、それに目を向けず、ただ2005年政権公約達成と自画自賛している自民党はやはり、国民のための政治をしていない。自民党議員が政治家でいられるための政治をしている。
ここに、自民党の問題の本質が・本丸がある。

次回以降これを見て行きたい。

2009年7月29日水曜日

自民党政権公約2009の前に郵政選挙の政権公約2005の審判を

国民も忘れてはならない、マスコミも論理をすり替えてはならないプロセスが、2009年衆院選挙の前にある。
それは日本が真に民主主義国家になるために欠くことが出来ない非常に重要なステップだ。

それは郵政選挙自民党政権公約2005をリセットしてはならないと言うことだ。何で今国民の生活が立ち行かなくなってきたのか、郵政選挙後4年間自公政権が実行してきたことが何で、その結果がどう今の状況に結びついているのか、自民党政権公約2005を検証して始めて、自民党政権公約2009を連続性の観点から見ることが出来るのだ。そもそも公約とはそう言う性格のものだ。
「人の噂も75日」的水に流す対応は断じてあってはならない。

まず、自民党政権公約2005にはキャッチフレーズとして「郵政民営化を突破口として、日本のあらゆる改革を加速させる」とあった。勿論、国費の無駄を削ると言うこともこめて「脱・役人天国」とも謳っていた。
しかし、4年間の実情はどうであったか。例えば橋下知事らが今もって「地方分権」を声高に言っているのは何故かを考えれば答えは出てくる。

明日以降順次仔細を検証をしていくが、郵政選挙とは一体なんだったのか。実はそこには大きな罪隠しが見て取れることが分かる。

ところで、本来マスコミのミッションは迎合的な話題をタブロイド紙的に取り上げるのではなく、事象を掘り下げるプロセスを行うべきなのだが、某Y新聞の「先進国最悪の赤字をどうする」の社説では、2009年マニフェストと絡める議論の中で、大きな誤りを犯していた。

財政再建を目指す方向を重要視するのは当然として、問題は何故そこまで肥大化したのかの議論があって始めて財政再建の道筋の議論ができると言うものだ。何故2009年末に債務残高がGDP比約170%と言う800兆円超えの巨額の財政赤字になっているのだ。
自民党政権公約2005で謳った2011までに基礎的財政収支の黒字化という公約の放棄を、一言「景気悪化で不可能」で片付けている。この検証は「味噌・糞」表層レベルでしかない。

「定額給付金」あるいは「約15兆円の追加財政出動」も赤字拡大の一翼であるが、800兆円はそれでは説明の付かない数字だし、仮に景気対策費用の嵩みが問題なら、当然費用対効果の議論に基づいて、臨時の財政支出がどのように税収に跳ね返ってくるかが言えなければ単に「穴を開けた」だけになってしまう。
そして少なくとも定額給付金の効果はコンビニ売上高・全国百貨店売上高の最近の数字の低迷、下落から見て税収アップ効果は甚だ疑わしい。

というわけで、まずこれまでの自公政権の政権運営の検証を、まず財政再建論議の前にすべきではないか。他の公約についても同じで、2009政権公約の前に検証すべき内容は沢山ある。

地に足の着いた議論をマスコミもして欲しい。

2009年7月23日木曜日

反省と言う言葉で反省が了承される不思議な自民党

自民党は不思議な党だ。
ひところ「猿でも出来る反省」というキャッチフレーズが流行ったがそれを思わず思い出させる一こまが先ごろの自民党両院議員懇談会で公開された。それは以下だ。

麻生首相が「ブレた発言で、国民に不安と不信を与えて、党の結束を乱すことになり、申し訳ない」と陳謝し、それを受けて中川元幹事長が、反省を聞いてすっきりしたと言ったとかいわないとか。つまり全面的に麻生氏の反省を受け入れ、それで全てが水に流された。

この一連のやり取りって不思議だと思いませんか。

すべてが「反省と言う言葉」の記者会見だけで終わって、問題の本質が流されてしまう程、世の中って甘いだろうか。耐震偽装、事故米偽装などなど国民に不安と不信を与えた事件に対して、「不安を与えて済みません」とだけ言って許される話だろうか。

世の中の常識では、許される話ではない。だけど自民党では許される。

麻生首相の反省の対象になる内容は、指導力の欠如という個人的なレベルにとどまらず、日本の内外に麻生政権の政治レベルの低さとそれを許す国民の政治レベルの低さをアピールしたと言う、国益に関わる問題なのだ。

何故発言がブレているのか?ここに踏み込まずして、何が反省なのか。そして、問題の本質を追求するという姿勢の無い自民党の姿は、とどのつまりの中川氏の言動に集約されている。そしてこれはとりもなおさず、安倍、福田両首相を圧倒的多数で選出しておきながら、1年で政権放棄をした両氏の問題を総括してこなかった自民党の本質にしっかりと繋がっているのが見て取れるのだ。

このようないい加減な政治を許すことなく、我々国民は政党政治を力強いものに育てていく責任がある。誰のために政治をするのかと言う原点を忘れて、権力に胡坐をかく議員が多すぎる。今回の衆院選挙はまさに、政治の原点に戻るための選挙だと思う。

2009年7月20日月曜日

国際政治でもメッセージの出せない麻生政権

廃案に追い込まれることになった「北朝鮮貨物検査特別措置法案」について、廃案になったからこそ逆に浮かび上がった政府・自民党の真意の不透明さが見えてくる。そして本来なら北朝鮮の核実験に対する強い「核不拡散のメッセージ」をラクイラサミットで出すべきだったのに出せない自公政権の問題も改めて見えて来たと言うべきだろう。

以下検証する。
自民党は「北朝鮮貨物検査特別措置法案」の廃案を民主党の参院での審議不同意によるものと非難の口実に使ったが、実は政府与党自体もこの法案の成立に本腰を入れてはいなかったということが、国連安全保障理事会での北朝鮮制裁決議1874が採択されてからの一連の動きの中で見えてきたからだ。

そもそも北朝鮮制裁決議1874が何物であるか、今一度整理しておこう。
これは北朝鮮の2度目の核実験に対して取られた措置である。ここで強調すべきことは、この制裁は「核拡散の抑止」という本筋を実効的に進めていくことを狙ったものである、ということである。

そこで、制裁決議には大きく2つの内容が盛り込まれようとした。北朝鮮船舶への公海での「臨検」強化策と金融制裁である。
しかし、北朝鮮船舶への公海「臨検」強化策は、中国の反対で、「義務化」でなく「要請」となった。この時点で、この措置の実効性が弱められた。臨検は戦闘行為に結びつく危険性が高いためだ。
一方、核・ミサイル開発に関連する貿易の決済を封ずる、北朝鮮の組織・個人への資産凍結などの金融制裁強化策は、実は重要な措置であると言う認識で一致していた。1874決議採択後30日以内に追加の措置を決定する制裁委員会でもこの追加措置案を決め、中国も同意することになった。勿論日本政府もこの措置案を推進してきた。この追加措置は北朝鮮高官の渡航禁止にまで踏み込んでおり、色々な意味で制裁の実効性が期待されている。

このように見てくると、もし日本政府が本気で「臨検」を推進したいのなら、ラクイラサミットで米国とともに中国・ロシアを説得する行為に出るべきだったと思うが、そのようなアクションを麻生首相は一切取らなかった。取れなかったと言うべきかも知れない。
それどころか、オバマ大統領がサミットで「核兵器無き世界」に向けた包括戦略の支持を訴え、支持を取り付けたのに対して、麻生首相は何をやったと言うのだ。唯一の被爆国である日本が国際舞台でメッセージも出せずに、ただただ臨検を進めようとしたとなると一体日本は何を考えているのかと言うことになりはしないだろうか。

今回の廃案は、そのような不透明さを抱えたままの審議であったということが図らずも露呈されることになったと言うべきではないだろうか。

さて日本国内に目を向けると、ラクイラサミットで国益を損ねた政権を信任する自公両党という構図になり、自公両党はますます何を考えているのか分からない、と言うことになる。
もういい加減、表面的なレベルに留まっている政治はやめにして欲しい。

政治の停滞は国際的視点で損失

今の政治危機は、「誰のために政治をするのか・国会議員の立ち位置は何処か」と言う政治のイロハが分かっていない、考えていない議員が多すぎると言うことに尽きると思う。特に自民・公明両党は最低だ。
今回の内閣不信任案の全員否決行動とその後の自民党両院議員総会を巡る一連のごたごたは、はっきり言って「目先の保身行動」以外の何物でもない。信任しておきながら「見栄えの悪い」麻生首相を変えようと言う思考は、安倍・福田・麻生氏を首相に大多数で選出しておきながら、自己批判も総括も出来ずに、「これがだめならあれ」と言う、モグラ叩き的近視眼的な思考方法の延長に過ぎない。

一方で、署名を切り崩して両院議員総会を流会にした自民執行部の視点も、如何にお家騒動を抑えるかと言う点、一点に尽きる。

この間、国民は無為に、無策の自公政権の時間の浪費にお付き合いをさせられている。しかも自民・公明両党の先生方に税金を払っている。

我々はこの無駄のために、税金を払っているのであろうか。代議士として国政を託しているのだろうか。経済・国際情勢は日々変わっていく中で、無策以上に実は大きな損失を被っていると言う事実にどうして目を向けないのだろう。解散を引き伸ばし、引き伸ばし、挙句の果てに無駄な内紛。、「誰のために政治をするのか・国会議員の立ち位置は何処か」分からない今の自民・公明両党には立候補する資格すらないと言われても仕方が無いのではないだろうか。

我々国民もよく考えて日本を変えるように一票を投じる必要がある。

2009年7月13日月曜日

許すな、解散の私物化という民主主義の冒瀆を

都議選の結果が昨日でた。その他の地方自治体での知事選、市長選の結果もこれまで全国各地で出てきた。
その結果については既に国民の皆様にとっては衆知のことと思います。

しかし、残念なことにその結果の持つ意味が分からない自民党、公明党の幹部の方々が沢山いる。
いやそれが分からないどころか、その国民の審判に対して、今彼らがやろうとしていることは何を隠そう、「解散」の私物化だ。 国政を自分たちのおもちゃにし、私物化している。

議会制民主主義の日本は選挙によって、民意の代表者を選び、国民自らが権力行使する代わりに、自らの権力の行使をその代表者に託すと言う代議制である。それは地方政治も国政も同じ事で、特に現在のように地方自治の独自性が弱い中央集権体制下では、地方自治体の選挙結果は強く国政の歪を反映すると言う道理になっている。
そして、これまでの地方選挙の結果および世論調査の結果は、自公政権に権力行使を託したくないと言うことなのだ。自分たちの意を体現してもらう代表者を変えたいと言うことなのだ。

本来の民主主義なら、既に代表者たる代議士の資格が問題となっている以上、その審判を国政において速やかに問うというのが筋である。だが実態はその民意を無視し、お家の事情で動いている。これが私物化以外の何だと言うのだ。民主主義への冒瀆だ。

とにかくあほらしいことに、自民党・公明党の幹部の面々は地方選挙結果は国政と関係ないとまで言いながら、昨今の首長連合の地方自治の分権要求に対して、ごもっともと言っている矛盾が分かっていない。つまりご都合主義でどうでもいいのだ。

議会制民主主義も分からず、ご都合主義と私物化で政治をし、民意を黙殺している現状に何の危機感も無く、マンネリで政治をしていることこそが自民党・公明党の問題の本質だと言うことも分かっていない。
この極めつけの他のいい例が、先の郵政選挙で刺客を立てられ、野に下った人間を何の理念も無く、自民党に復党させるし、復党する論理は、既にして自民党代議士の資格とは何かと言う根源的な問題にぶち当たっている。こんないい加減な政党に政治を託すことが出来るだろうか。

2009年7月11日土曜日

国民の勢いで国会に津波を!Yes We Can!

目指せ、ブレ無い政治、投げ出さない政治、やりっぱなしにしない政治!!

日馬富士が横綱を目指す名古屋場所のように、また西郷さんが江戸城総攻撃の御旗を立てたときのように、勢いが巨大な力の塊となって押し進んで行く時がある。
今まさに政治の世界で、巨大な「国民に貯まった社会の歪のエネルギー」が津波のように解き放たれようとしている。

もはや何人も止められない。さあ、力を合わせよう!

ブレる麻生首相、途中投げ出しの福田、安倍両首相、痛みを伴う改革と称して受け皿を作らずやりっぱなしの小泉首相。この4年間の自公政権は、確実に我々の生活基盤の崩壊、社会基盤の崩壊、雇用・産業基盤の崩壊を放置してきた。

そして、天下るだけで巨額の財を手にする不公平さ、社会を支えるべき税金が無駄に消える仕組み、半年前の過去最高の企業利益が還元されない不透明さに対し手をこまねいている。

これらは生活格差、地方格差として目に見える形で現れてきている。自公政権は懺悔すべきだ。

しかし、自公政権は抜本的改革が出来ないという構造的問題を抱えている。加えて解散をせず、お家事情で動いているから、議員ひとり一人も、そして自公政権も選挙のことだけで頭がいっぱいでいつまで経っても腰の座った政治が出来ない。G8サミットでも海外からは足元を見透かされているために国際政治の力が発揮できず、国益を損なうことを麻生首相はやりのけた。

不良債権を放置すると負債が雪だるま式に膨張し手の施しようがなくなるのと同じように、政治負債の放置も手の施しようが無くなる。この危機に瀕しているのが、今の日本だ。

自民党内には、またしても選挙の顔のための新しい総裁を選ぶだとか、総辞職をして新しい閣僚の顔ぶれにするだとか、とにかく姑息なことをやろうとしている。これこそお家騒動だ。懺悔もせずにだ。許してはいけない。

国民は自公政権の負の遺産を早く清算させるよう声を上げるべきだ。そして受け皿として民主党に改革の旗手を任せる2大政党化の為の、大人の一歩を踏み出すべきだ。官僚任せの自公議員に比べ政策通の議員が多い民主党は頭を使った政治をやろうとしている。
国民はしっかりと監視を強めて行こう。

2009年7月5日日曜日

解散要求は国民の手で

よーく自民・公明党も、マスコミも、国民も、解散は「自民・公明党のお家事情のトランプゲームのジョーカ」でないということを認識すべきだ。麻生首相、および自民・公明党の国会議員は、国の税金で生活をしているが、国家的破綻が目の前に見え隠れしてきていると言う状況なのに、危機管理というか緊迫感というか、まったく欠けている税金泥棒だ。「解散はしかるべき」云々は、私は国際情勢は見えてません、私は経済情勢は見えてませんと言うに等しい。

何故なら、解散選挙が先送りになっているために、自民・公明党はあくまでも「選挙目当」の15兆円の財政出動を先達て決めた。この持つ意味を冷静に吟味すると、「選挙目当」のものを債務超過で用意したということだと思う。しかし、この赤字は、
(1) ただでさえ問題噴出の小泉以降の「介護・医療・年金」の制度欠陥を更に大きなものにする
(2) 選挙目当てだから長期的視点に立った雇用創出への種まきができず、今回の経済危機で明らかになった「内需が弱くて外需頼み」の構造が変わらない。つまりリストラされた人員を吸収する雇用の拡大が出来ない
(3) 従って失業が吸収できず、当然GDPは下がる
(4) GDPが下がれば税収が減り、財政赤字は更に拡大するというスパイラルに入る

こう言う危機を撒き散らしているのは、解散をせずに時間は経っていくが、抜本的な施策が打てないためだ。目先のジョーカをいつ切るかと言うお家騒動に国民を巻き添えにしないで欲しい。Time is Moneyだ。国民は黙っていてはだめだ、声を上げないと。

昨今の民主党にまつわる献金記載問題にも自民党の「お家事情」だけしか見えてこない。上記の国家的破綻の問題とは比較にならない、ちまちましたものだ。記載問題は税金が特権的利益誘導に使われる問題に繋がるものではないし、国家的背任行為での利益隠しでもない。むしろ今回の献金問題のあら捜しをしている議員の方が、ちまちました事で、税金泥棒的無駄な時間を使っているため、背任的な行為だ。自分たちがどこを見て仕事をしているか考えて欲しい。国策特殊法人などへの税金の使い方にこそ、違う衣を纏った利益誘導があるという視点に立ち、税金の使い方を論ずることこそ、政治と金の正しいあり方に繋がっていくと思う。

ところで中央集権国家システムに大鉈を打ち込もうとしている地方分権の議論は、大いに賛成だが、これは「革命」であって、自民党の内部からは絶対と言っていいほど変えられない。自民に入ってと言う東国原氏の見方はピントはずれで、これを担ごうとラブコールを送る自民党はやはり、地方分権を何も考えてませんと宣言しているようなもの。このような「お家大事」の顛末は江戸末期に近い。やはり国民の手で「黒船」を突きつける必要があると思う。動くときだ。

皆さんはどう思いますか。

2009年7月4日土曜日

政治献金

民主党の小沢前代表事務所と西松建設の献金問題で政治と金のあり方がクローズアップされて以来、国民も検察も重箱の隅の法律解釈と見かけ上のクリーンさの大儀に突き動かさられて日本の政治環境を誤った方向に導いているのではないだろうか。

政治献金のあり方を考える際、金の問題の本質は何なのか、絶えず原点に返って問い直さないと、枝葉末節の議論であるにも拘らず、それがあたかも本筋の議論であるかのような錯覚に陥る。本来マスコミが見識を持って諭すべき事柄であるが、最近のマスコミは右も左もまったく同じ論調で騒ぎ立てるだけである。無責任なことこの上なく甚だしい。食い散らかしているだけである。

話を元に戻そう。
政治家、あるいは政党は権力を行使できる立場にある。そして金は権力を補完するもので、権力行使と表裏一体のものである。我々の身近なところでも「金の切れ目は縁の切れ目」が茶飯事である。それ故に政治家、政党に流れ込む金は往々にして権力行使の方向を間違ったものにする。たとえば私服を肥やすとか、あるいは疑獄事件であったように税金を使って特定の企業・団体の利益誘導をすることなどが起きる。

では、これらの企業献金の流れの問題は何なのか。金は沸いてくるものではない、作り出すものである。不当な利益を上乗せしたり、法人税を薄めたり、あるいは国の融資、公共事業費という衣をまとった国民の税金などである。ここに権力が絡んで、権力者に有利なように操作する土壌が生まれる。この操作は納税する国民から見て著しく公平感を損なうものになる。だからこれは厳しく律すべき対象となる。

昨今問題として取り上げられている献金問題は、はたして特定の団体・企業に有利となる便宜・操作が施されているのであろうか。異なる企業・団体に不利となる状況が作り出されたのであろうか。また私服を肥やした物になっているのであろうか。金が沸いてくるものでもなければ、分けも無く消えるものでもない。収支を見れば、金の使い方は決まってくる。この金の流れに不公平感・背任行為が無ければ問題とすべきではないと思う。仮に若干の不透明感があっても、だ。

むしろ献金と利益誘導との癒着を議論し始めたら、自民党政策で保護される(たとえば法人税など)企業は利益誘導をされているという理屈にならないのだろうか。そのような議論は政治のあり方を非常に矮小化する。それより国策特殊法人などへの税金の使い方にこそ、違う衣を纏った利益誘導があるという議論をすべきでないだろうか。

おぞましいことに高い税金で生活している自民党国会議員が本来正すべき社会の不公平な仕組みを取り上げず、重箱の隅を突付くような、献金記載漏れのような、社会のあり方にインパクトを与えそうに無い問題に無駄に時間をかけている。政治を非常に小さくしている。不見識極まりない。
自民党の行為は、選挙パフォーマンス以外の何者でもなく、かつ政治のあり方を非常に歪んだものにするだけでなく、戦前に実際に起きた、虚構の汚職摘発検察ファッショを誘発し、政党政治を潰しかねない。戦前の二の舞となることを危惧する。

皆さんはどう思いますか。

2009年7月1日水曜日

政治の悲鳴を救え

日本は今、政治的危機に直面している。それも重症である。これはとりもなおさず自民・公明党政権が長きに亘って政治を小さくしてきたためだ。

一体、政治が小さいとはどういうことか。米国に追随して小泉元首相らが標榜した「小さな政府」とはまったく違う。だが奇しくも、「小さな政治」は小泉元首相から始まった。

そもそも政治とは力の行使であり、力の勾配で国家をある方向に導いていくものである。権力を権力自体がもたらす優越感のためだけに、あるいは私利のためだけに使えば国家としてはその場凌ぎの場当たり的なものにしかならない。本来政治は頭でするものである。

では自民・公明政権は、ある国家像を積み上げ、その実現に向かって我々国民に動く意欲と勢いを与えてきただろうか。
答えは否である。なぜなら自民党政治家は自らの頭で考えて政治をしてこなかったからだ。

では彼らは一体何をしてきたのか。政策面では官僚任せだ。またその場凌ぎの人気取りにしか党運営は向いていない。
政権権力の使い方を見ると、小泉政治は「劇場型」政治と言う言葉に象徴されるように、権力を行使している自分の姿を劇場の一観客として眺めるナルシスト型であった。このため執政役としては当然必要な、結果の総括をする前に、さっさと失敗の検証もせずに舞台から降りてしまった。これが政治の方向性を一気に失わせる結果となった。
そして、その後の安倍、福田、麻生の各自民党総裁は方向性が失われたにも拘らず、その修正も出来ずに、単なる人気取りと言う尺度だけで選ばれてしまった。そして権力のための権力と言う構造で動いてきたため、日本を当然の帰結であるが、間違った方向に運んできた。つまり政治が政治である所以を失い、マイクロマネジメントに終始してきているのだ。これが小さな政治の現状だ。

そして、昨今の東国原氏擁立に関連する動きを見ても、自民党はまったく反省もできていなければ、頭を使った政治に切り替えようとする意図すら見えてこない。あくまでもその場凌ぎの人気取りで藁をも掴む思いだけで動いている。国民をあまりにも馬鹿にした話だ。「そのまんまの東国原」は任期も途中で、しかも執政の総括もできていない。地方分権を謳い、地方政治云々と言いながら結局は地方政治を踏みにじる行為をやろうとしている。こんな論理も分からない「そのまんま東」に頭を使う国政を任せられるか。目先だけを変える「小泉劇場」の再演を狙っていると言う以外の何だと言うのだ。

こんな政党にこれからも国政を任せるのか。我々国民は自民党のこれまでの醜態を黙って許していいのだろうか。

更に付け加えるべき重要な視点は、公明党との選挙協力による数字操作で自民党議員が選出されてきたと言う実態である。つまり頭を使わなくても、数字のお遊びで、かつ民意から遊離しても国政を担えるという恐るべき錯覚である。

これらのツケガ大きく我々の上に圧し掛かってきているのが現実だ。しかし日本国内の惨状にお構いなく、世界はどんどん動いている。

失われた10年とか、不良資産とかという言葉が、バブル崩壊に伴って経済界に津波のように我々に襲い掛かってきたが、政治の世界でも「政治の負債」「自民党政権の背任行為」に曝されている。
郵政選挙で公認を得られなかった議員を自民党議員に復党させることを何の理念もなく平気で行うこと、また小泉政権骨太方針をうやむやのうちに国民への了承も取らずに転換するのが背任行為でなくて何が背任行為だ。数え上げたら枚挙に遑がない。

われわれ国民は、今こそ自らの頭を使って政治に参画していかなくてはならない。