2009年7月1日水曜日

政治の悲鳴を救え

日本は今、政治的危機に直面している。それも重症である。これはとりもなおさず自民・公明党政権が長きに亘って政治を小さくしてきたためだ。

一体、政治が小さいとはどういうことか。米国に追随して小泉元首相らが標榜した「小さな政府」とはまったく違う。だが奇しくも、「小さな政治」は小泉元首相から始まった。

そもそも政治とは力の行使であり、力の勾配で国家をある方向に導いていくものである。権力を権力自体がもたらす優越感のためだけに、あるいは私利のためだけに使えば国家としてはその場凌ぎの場当たり的なものにしかならない。本来政治は頭でするものである。

では自民・公明政権は、ある国家像を積み上げ、その実現に向かって我々国民に動く意欲と勢いを与えてきただろうか。
答えは否である。なぜなら自民党政治家は自らの頭で考えて政治をしてこなかったからだ。

では彼らは一体何をしてきたのか。政策面では官僚任せだ。またその場凌ぎの人気取りにしか党運営は向いていない。
政権権力の使い方を見ると、小泉政治は「劇場型」政治と言う言葉に象徴されるように、権力を行使している自分の姿を劇場の一観客として眺めるナルシスト型であった。このため執政役としては当然必要な、結果の総括をする前に、さっさと失敗の検証もせずに舞台から降りてしまった。これが政治の方向性を一気に失わせる結果となった。
そして、その後の安倍、福田、麻生の各自民党総裁は方向性が失われたにも拘らず、その修正も出来ずに、単なる人気取りと言う尺度だけで選ばれてしまった。そして権力のための権力と言う構造で動いてきたため、日本を当然の帰結であるが、間違った方向に運んできた。つまり政治が政治である所以を失い、マイクロマネジメントに終始してきているのだ。これが小さな政治の現状だ。

そして、昨今の東国原氏擁立に関連する動きを見ても、自民党はまったく反省もできていなければ、頭を使った政治に切り替えようとする意図すら見えてこない。あくまでもその場凌ぎの人気取りで藁をも掴む思いだけで動いている。国民をあまりにも馬鹿にした話だ。「そのまんまの東国原」は任期も途中で、しかも執政の総括もできていない。地方分権を謳い、地方政治云々と言いながら結局は地方政治を踏みにじる行為をやろうとしている。こんな論理も分からない「そのまんま東」に頭を使う国政を任せられるか。目先だけを変える「小泉劇場」の再演を狙っていると言う以外の何だと言うのだ。

こんな政党にこれからも国政を任せるのか。我々国民は自民党のこれまでの醜態を黙って許していいのだろうか。

更に付け加えるべき重要な視点は、公明党との選挙協力による数字操作で自民党議員が選出されてきたと言う実態である。つまり頭を使わなくても、数字のお遊びで、かつ民意から遊離しても国政を担えるという恐るべき錯覚である。

これらのツケガ大きく我々の上に圧し掛かってきているのが現実だ。しかし日本国内の惨状にお構いなく、世界はどんどん動いている。

失われた10年とか、不良資産とかという言葉が、バブル崩壊に伴って経済界に津波のように我々に襲い掛かってきたが、政治の世界でも「政治の負債」「自民党政権の背任行為」に曝されている。
郵政選挙で公認を得られなかった議員を自民党議員に復党させることを何の理念もなく平気で行うこと、また小泉政権骨太方針をうやむやのうちに国民への了承も取らずに転換するのが背任行為でなくて何が背任行為だ。数え上げたら枚挙に遑がない。

われわれ国民は、今こそ自らの頭を使って政治に参画していかなくてはならない。

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