2009年7月4日土曜日

政治献金

民主党の小沢前代表事務所と西松建設の献金問題で政治と金のあり方がクローズアップされて以来、国民も検察も重箱の隅の法律解釈と見かけ上のクリーンさの大儀に突き動かさられて日本の政治環境を誤った方向に導いているのではないだろうか。

政治献金のあり方を考える際、金の問題の本質は何なのか、絶えず原点に返って問い直さないと、枝葉末節の議論であるにも拘らず、それがあたかも本筋の議論であるかのような錯覚に陥る。本来マスコミが見識を持って諭すべき事柄であるが、最近のマスコミは右も左もまったく同じ論調で騒ぎ立てるだけである。無責任なことこの上なく甚だしい。食い散らかしているだけである。

話を元に戻そう。
政治家、あるいは政党は権力を行使できる立場にある。そして金は権力を補完するもので、権力行使と表裏一体のものである。我々の身近なところでも「金の切れ目は縁の切れ目」が茶飯事である。それ故に政治家、政党に流れ込む金は往々にして権力行使の方向を間違ったものにする。たとえば私服を肥やすとか、あるいは疑獄事件であったように税金を使って特定の企業・団体の利益誘導をすることなどが起きる。

では、これらの企業献金の流れの問題は何なのか。金は沸いてくるものではない、作り出すものである。不当な利益を上乗せしたり、法人税を薄めたり、あるいは国の融資、公共事業費という衣をまとった国民の税金などである。ここに権力が絡んで、権力者に有利なように操作する土壌が生まれる。この操作は納税する国民から見て著しく公平感を損なうものになる。だからこれは厳しく律すべき対象となる。

昨今問題として取り上げられている献金問題は、はたして特定の団体・企業に有利となる便宜・操作が施されているのであろうか。異なる企業・団体に不利となる状況が作り出されたのであろうか。また私服を肥やした物になっているのであろうか。金が沸いてくるものでもなければ、分けも無く消えるものでもない。収支を見れば、金の使い方は決まってくる。この金の流れに不公平感・背任行為が無ければ問題とすべきではないと思う。仮に若干の不透明感があっても、だ。

むしろ献金と利益誘導との癒着を議論し始めたら、自民党政策で保護される(たとえば法人税など)企業は利益誘導をされているという理屈にならないのだろうか。そのような議論は政治のあり方を非常に矮小化する。それより国策特殊法人などへの税金の使い方にこそ、違う衣を纏った利益誘導があるという議論をすべきでないだろうか。

おぞましいことに高い税金で生活している自民党国会議員が本来正すべき社会の不公平な仕組みを取り上げず、重箱の隅を突付くような、献金記載漏れのような、社会のあり方にインパクトを与えそうに無い問題に無駄に時間をかけている。政治を非常に小さくしている。不見識極まりない。
自民党の行為は、選挙パフォーマンス以外の何者でもなく、かつ政治のあり方を非常に歪んだものにするだけでなく、戦前に実際に起きた、虚構の汚職摘発検察ファッショを誘発し、政党政治を潰しかねない。戦前の二の舞となることを危惧する。

皆さんはどう思いますか。

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